キ/GM/11-20/11
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「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くと、元気良く挨拶をする。
アルバイト先でこれは一番始めに教わったこと。でも大声を出せるようになるには何日かかかった。照れ臭ささが先に立つ。けれど、しばらくすると、条件反射で声が出るようになった。
いつもどの店に入っても、店員はそう言うけれど、客の立場からすればあまり深く耳に止めてない。馴染みのお店のアルバイトさんも、こういう新米修行を成し遂げてきたのかもしれないと考えると、いつものお店にいくにも新鮮な感じがした。
「三高さん、レジお願いしまーす」
「はい」
祥子の仕事は本屋の、主に売り場整理とレジ打ち。大変だけど、結構充実している。
店長は少々皮肉屋のきらいがあるけど悪い人ではなく、他のアルバイトの人も何人かいるが、皆親切だ。一緒に昼御飯を食べているときなどに、ふと思うことがある。(結構、免疫ついてたんだな…)。他人と付き合うなんて、ここ数年無かったし(勿論、A.CO.の6人以外では)、高校時代もずっと孤立していたので不安だったけど。こんな風に、社会に出て働けるなんて思わなかった。
阿達史緒という存在は確かに自分を変えた。
結果的に良いほうへの転換になったのだろうが、史緒と出会うことができて良かったとは、まだ素直に認めたくない。
子供じみた意地だと、分かっているけれど。
1-4
6月末。
東京気象台、本日の予報は「晴れ」。朝のニュースでは「梅雨空も一段落、さわやかな青空が広がるでしょう」とのこと。しかし。
祥子はバイトの帰り道、通り雨に降られていた。
この季節に傘を持ち歩かないほうが愚かでもあるけれど、文句の一つくらいは言わせて欲しい。
「やだ、もー」
ちょうどバイト帰りのことだった。「さわやかな青空」に突如暗雲が立ち込め、こうして目の前では「どしゃ降り」としか形容できない雨がアスファルトに打ちつけられている。
祥子は慌てて近くの軒先に避難した。雲の流れは速く、すぐに止むものと思われる。
今日もバイトは少しの失敗と大きな充実感をもって終わらせることができた。気心の知れない他人と付き合うのは何かと気を遣うけれど、そういう社会生活の修行も必要なことなのだろう。
「ねぇ」
すぐ近くから声がした。見回すと、祥子のすぐ後ろ、軒先を拝借している店のドアから、中年の女性が顔を出していた。祥子に声をかけたようだった。
まさか、雨宿りしていることを咎められるのでは、と祥子は焦った。雨は変わらず降っていた。
振り返って改めて店の雰囲気を見ると、バーか何かだろうか、カウンターがあってその後ろにはアルコール類が並んでいた。とにかくこの時間…日中は開いてない店であることは確かのようだ。するとこの女性は、店の主人だろうか。
「時間あるんだったら、中入っていかない? そこじゃあ、寒いでしょ?」
「は?」
突然の申し出に祥子は面食らった。
当然、警戒心が働くが、祥子にはこの中年女性に悪気が無いのがわかる。素直に、単に親切な人のようだ。簡単に甘えるのも何なので、とりあえずは遠慮した。すると女性は人懐っこい笑顔を見せて言った。
「あなた、そこの本屋のバイトの子でしょう? あそこの店長、ウチの常連なの。美人がバイトに入ったって自慢してたわ」
と、いうことは祥子の顔は最初から割れていたということか。
「ね? 雨も止みそうにないし、髪くらい拭いていきなさいな。美人に風邪ひかれちゃ夢見が悪いわ」
「えっ、あの…」
ほとんど強引に、中年女性は祥子の手を引き、店の中へ連れ込んだ。その腕を無下に振り払うこともできず、祥子は観念することになった。
雨はまだ降っていた。
店の中は思ったより広かった。カウンターの他に丸テーブルが9つ並んでいて、イギリスのパブみたいなものかな、と祥子は思った。祥子はあまりこういう店に入ったことはない。
それから狭いけれど雛壇があって、片隅にグランドピアノが置かれていた。音楽演奏をすることもあるのだろう。
開店前なので客は一人もいない。従業員も、先程の女性───可憐、という名前らしい───ひとりだけ。これだけの広さの店だから、数人はいるのだろうけど。
「はい。これ使って」
奥から戻ってきた可憐は祥子にタオルを差し出した。
「ありがとうございます」
「お名前は?」
「三高、祥子です」
「そう。いい名前ね」
やわらかく笑った。陳腐な台詞であるのに、全くそれを意識させない。それに、なんだろう、安心させるような雰囲気を持っていた。
「どうぞ。サービスよ」
コト、と祥子の前にティーカップが置かれた。白い、金の模様が入ったフォーマルなカップ。あまりこういう店では使わないのではないだろうか。
「私の前で遠慮は無用! 暖かいうちにどうぞ」
有無を言わさず、とはこのことだ。叱られたような気分になり、祥子は「いただきます」というしかなかった。それはそれで好意はありがたい。
「うちの店長、常連なんですか? 今度、連れて来てもらおうかな」
祥子は自分が社交辞令を言えるとは思ってなかった。それを見抜き可憐はカラカラと笑って、
「いいのよぉ、気を遣わなくて。でも、ムサいおじさんと来るより、気が向いたら友達と来て欲しいな。若い女の子は大歓迎よ。喋ってるとこっちまで若返る気がするわ。あ、未成年はダメだからね」
ガンッ
という破壊音がしたので振り返ると、奥の扉から一人の青年が飛び込んできたところだった。どうやらその破壊音はドアが壁を打った音のようだ。
走ってきたのか息が上がっていた。20代半ばくらいだろうか。ラフな格好で、黒い鞄を抱えていた。
「ごめんっ可憐さん! 5時まで練習させて」
そう言ったかと思うとずかずかと足を運び、雛壇の上のピアノへ向かった。
「どーぞ。5時からは仕事よ」
「わかってる」
可憐が答えると青年はピアノの椅子を引き、慣れた様子で座り位置を整えた。ピアノの横に置いた鞄から何冊かの本を取り出している。
その様子を祥子が眺めているのを見て可憐は説明した。
「彼ね、ここでピアノ弾きのバイトしてるの。自宅にピアノが無いから、よくここで練習するのよ。祥子ちゃんも、ちょっと聴いていって」
がたん。
ピアノの蓋を上げる音が必要以上に強く響いた。余韻が残るささやかな沈黙。
譜面台に置いた楽譜は、この時開いていなかった。
青年は鍵盤に指を乗せ、やがて、曲が流れはじめる。
空間を満たしはじめる。
馴染みが無い曲。
クラシックだろう、というくらいにしか、祥子には分からなかった。
(綺麗な曲…)
どうしてだろう。何処か懐かしい。
可憐との会話も忘れるほどに聞き入ってしまう。そんな祥子の横顔を見て可憐は微笑んだ。
「どう? うちのピアノ弾き。なかなかのもんでしょ?」
「……」
ただ単純に。
何故人間の指からこんな綺麗な音が奏でられるのか不思議に思っていた。
勿論、ピアノを見るのは初めてではないし、演奏を目の前で見るのも初めてではないけど。
(それに、なんて…)
なんて。
言葉では表せない、きれいな気持ち。
これは祥子にしか分からない感覚だ。ピアノ奏者の、感情が伝わってくる。その音と共に。
(ピアノ……?)
その言葉に思うところがあって、黒い影が祥子の胸を過ぎった。
「……っ」
ふいに、足元が消えた感覚に陥った。突然訪れた不安。
タオルに顔を埋めた。そのまま落ちて行かないように。
思い出しかけたことを、また胸に仕舞いこんだ。
ピアノの音がやんだ。
「可憐さん、そこのお客さん」
と、青年の声がした。
「え? …あら、祥子ちゃん、どうしたの? 気分でも悪い?」
祥子の異変に気付いた可憐が心配そうに声をかけてきた。
「いえっ、ごめんなさい、何でもありません」
「どうかしたの?」
ピアノ弾きの青年がわざわざこちらへ向かってきた。何故だか、祥子は動揺してしまい、ガタンと音をたてて立ち上がった。わざわざ演奏を止めさせてしまったことも申し訳ないし、心配してくれているようだけど実は何ともないわけだし、いやそれは関係ないと思うけど、とにかくさっきのピアノ演奏を聴いてすごくドキドキした───その演奏者とまともに顔を合わせられないと思ったのだ。
「あの、私、帰ります。…あっ、雨もやんだみたいだし」
突然のその言葉に、勿論、可憐は驚いた。
「祥子ちゃんっ?」
「ごちそう様です、ありがとうございましたっ」
挨拶もそこそこに(かなり失礼だったことだろう)祥子は荷物をまとめ踵を返し走り出した。勢いでドアを開けて、街中へ。雨はまだ小降りだったが気にならない程度だった。
逃げるように祥子が去ってその店内。可憐が冷やかすように笑った。
「嫌われたわねー、慎ちゃん」
「えっ、何で? 俺のせいなの?」
ピアノ弾きの青年は訳が分からず、可憐に食って掛かっていた。
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