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 翌日。
 本日のバイト時間は午後1時から7時。
 祥子は本棚の整理をせっせとこなしていた。
「気のせいかもしれないけど、三高さんが来てから万引きが減った気がするよ」
 と、店長が上機嫌で言う。
「あはは、それどんな関連ですか、てんちょー」
 他のアルバイトの子が笑った。祥子も笑う。しかし、
(ははは…)
 心の中では苦笑い。
 万引きが減っている原因に、心当たりがあるからだ。
 祥子は、万引きを働きそうな気配を感じると、本の整理をする振りをして、それとなく近寄って牽制する。
 アルバイトとはいえ、店員のすぐ近くで万引きする馬鹿はいない。その祥子のささやかな牽制のぶん、万引きは減っていると思う。
 勿論、そんなことは口に出しては言えないけど。
 役に立てて良かった。
 そのくらいには、満足している。自分のちからと、うまく付き合えている。
「じゃあ、三高さん。休憩入ってください」
「はーい」
 休憩時間は15分。
「ふぅ」
 ──昨日、アパートに帰りついてから、借りたタオルをそのまま持ってきてしまったことに気付いた。
(返しに行かなきゃ───)
 でも、みっともないところ見られた後だし、どんな顔で行けば…。
 そのタオルは、昨晩、洗濯してきれいにたたんで、ちゃんと持ってきている。
「…………どうしようかな」


*  *  *


 昨日と同じ店のドアを開けると、むっとするような喧燥が流れ溢れてきた。
(う…)
 祥子が思わず顔をしかめてしまうのはどうしようもない。彼女が一番苦手とする状況で、今まで、こういう場所には近寄らないようにしていたから。軽い目眩を覚えた。
 薄暗い店の中は賑わっていた。
 もっと早い時間に来れればよかったのだが、祥子もバイトがあったので仕方がない。アフター5の会社員が何組も、アルコールを注ぎ合ってグラスを鳴らしていた。客たちの話し声が雨の音に聞える。
 可憐がいるカウンターで一人飲んでいる人、友人同士、恋人同士、同僚や上司部下の関係…。
(……)
 やはり息苦しさを感じる。
 祥子は入り口付近の壁に背を預けて俯いた。
 目を閉じると、自分に向かって集まってくる感覚がある。
 疲れている人、いいことがあった人、嫌なことがあった人、喜び、悲しみ、愚痴、自棄、待ち合わせ(ワクワク? イライラ?)。
 たくさんの人がいる所では、たくさんの思いがある。
 伝わるこの感覚を楽しめるようになったのは一体いつからだろう。耳を塞ぐことをやめたのはいつだったろう。
 少なくとも、阿達史緒に出会う前では無かったような気がする。
(──あー…)
 祥子は途端にウンザリして、顔を上げ、その場から立ち去ろうとした。
 けれど手後れだった。
「こんばんわー、カノジョ、一人?」
 薄っぺらい笑顔の若い男が二人、近寄って声をかけてきた。さっきまでテーブルで飲んでいた二人組だ。茶髪で長髪、ピアスとストリート系ファッション。祥子を囲むように二人は立ちはだかった。
 この手のナンパは本当にどこにでもある。
 祥子は溜め息をついて無視を決め込んだ。こういう輩を相手にする場合、大事なのは、はっきりした態度を示すこと。引っかけられる女だと、少しでも思わせないこと。
「どうしたの、こんな隅で突っ立ってさー。もっと奥へ行こうよ」
 それでもしつこい男達は馴れ馴れしく腕を掴んで、強引に引っ張ってきた。
(冗談じゃないわよっ)
 そう思っても声や態度は荒げない。慣れている、とは言いたくないけど、祥子はきっぱりと言い放った。
「離してください。待ち合わせです」
 この場合、多少の嘘も有り。それでも男達は引き下がる様子はなかった。
「あっ、もしかしてカレシ待ち? じゃ、来るまで一緒に飲もうよ、ね? 決まりーっ」
 その笑顔と強引さには空恐ろしいものさえ感じる。
「や…っ、ちょっと」
 半ば引きずられるように、店の中へと連れて行かれる。祥子は恐いと思うより先に怒りを覚えた。
「離してって言ってるでしょっ」
 強く叫んでから、
(しまった)
 と思った。
 こういう輩は怒らせてしまうほうが恐い。
 案の定、男達の顔つきが変わった。その時だった。
「はい、そこまで。ナンパは向こうでやってくれる?」
 祥子の背中のすぐ後ろから、第三者が声をかけてきた。(え?)と思い振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。タイプ的には、ナンパ男たちと似通うものがあるが、それよりも一本芯が通った感じに見える。しかしこの状況を勧めているのか、止めようとしてくれているのか判断が難しい言い回しだった。
 どうやらその男性の素性を知らないのは祥子だけで、ナンパ男二人組は顔見知りのようだった。
「何だよ、シン。邪魔すんのか?」
「お前には関係ないだろがっ」
「あるさ。質の悪いナンパ野郎がいる店じゃ、女の子集まんないだろ? 可憐さん、若い女の子、好きだしさぁ。知り合いが営業妨害やってるなんてバレたら、俺もヤバイんだよね、立場上」
 ニコニコと笑顔で言うが、何やら裏に響く牽制のようなものが感じられる。
 ナンパ男たちは「可憐さん」という言葉に一瞬怯んだ。
「それに」
 ぽん、と男は祥子の背後から肩に手をかけ、その肩越しからナンパ男二人を睨み付けた。
「この子は俺と先約があるの。ナンパは遠慮してもらえる?」
 祥子からは見えないが、凄みのある笑顔だったようだ。ナンパ男たちは悪態づきながらも、すごすごと店から出て行った。
 祥子は訳が分からず、その後ろ姿を見送った。
 「シンちゃん、でかしたわー」と、カウンターの向こうから可憐が声をかけてきた。
(………?)
 何だかよく分からないけど、とにかくしつこいナンパからは助け出されたというわけだ。
 先程まで掴まれていた腕にまだ感触が残っていて、その部分に良くないものが溜まっているような感覚に陥って、祥子は少し乱暴に腕を振った。
 その行動に何か勘違いしたのか、背後に立つ男はパッと腕を離し、そのまま両手を上げた。
「ごめん、余計な世話だった?」
「いえ…っ、ありがとうございましたっ」
 咄嗟に振り返る。
 そのとき改めて、祥子はその男の顔を見た。
 髪は黒く短いけどちゃんとセットしていて、両耳にシルバーのピアス。黒地のワンポイント柄Tシャツにスラックス、綿の白いシャツを羽織っていた。ファッションに感心があるかどうかは微妙なところだろう。
 助けてくれて何だけど、新手のナンパかも、と思った。が、相手から伝わってくる感覚に嫌なものはない。
 祥子が礼を述べると、男ははにかむように笑った。意外と素直な笑い方だった。
「どういたしまして。でも焦ったー。喧嘩になったらどうしようかと思った。指、怪我したらシャレにならねーし」
「あの、さっきの人達と知り合いなんですか?」
「うん、友達とまではいかないけど、知り合いと言えば知り合い。俺からすれば、この店の常連なら誰でも知り合いだから。…あ。俺の都合でさっきは助けたけど、勘違いするなよ? 俺は基本的に善人じゃないから。さっきみたいのでも、誰でも助けるってわけじゃないし」
「はぁ…」
 何だかよく分からない。
「君、昨日、ここで雨宿りしてた子だよね」
「あ…っ」
 今の今まで気付かなかったがこの男はこの間の、
「改めてこんばんわ。ここのピアノ弾きで日阪慎也っていいます」
 ピアニストだった。

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