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 ───二週間後。
「三高、また来てたのか」
 午後7時。人が入り混じる時間帯の可憐の店。そのカウンターに、見知った人影を見つけた日阪慎也は、その人物の隣に腰掛けた。この混んでる店のなかで、彼女の隣の席が空いていたのは、もしかしたらカウンターの中にいる可憐の差し金かもしれない。
 慎也の言葉に、三高祥子は苦々しく返した。
「日阪さんが寄れって言ったんでしょ」
 二人はこの可憐の店で、何度か会うようになっていた。
 慎也はこの店で週4回、ピアノ弾きのアルバイトをしている。祥子は本屋のアルバイトが終わった後、この店に顔を出していた。
「それにしたって今日は金曜だよ? …三高、23歳って言ってたよな? アフター5にいつも一人なのは悲しーなぁ。たまには友達や彼氏、連れて来いよ」
「そう言う日阪さんだって、友達や彼女がここに現われたことって無いじゃないですか」
「おあいにくさまー。俺の友達、けっこう顔出すよ。三高とは時間が合わないだけー」
 と、意地悪く言う様を見て、
(あんなきれいな演奏してた人がこんな人とは思わなかった)
 と、腹立たしくも思う。でもその意地悪さはアクのあるものではなく、気の良さが伝わってくるので、結局は祥子も笑ってしまう。
「でも慎ちゃん、彼女はいないわよね」
 カウンターの中から可憐が口を挟んだ。
「可憐さん、余計なことは言わなくていいよっ」
「あら。余計なことじゃないでしょ。ねー? 祥子ちゃん」
「?」
 可憐は意味ありげにウィンクして見せたが、祥子には伝わらなかった。
 どういう意味? と尋ねると、慎也は笑ってごまかしていた。
「慎ちゃんもいい歳なんだから、彼女くらいつくりなさいよ」
「俺はいーのっ。バイト三昧の苦学生だから」
「え? 学生なんですか?」
 初耳だった。
「そう。26歳にして。薪坂音院って知ってる? 俺は現在、在学中」
 さらに慎也が言うには、初めて二人が会った日に慎也が練習させて欲しいとここへ駆け込んできたのは、次の日から始まる実技試験の練習が目的だったのだという。
「聞いたことある、かも。…そっか、だからピアノ上手なんですね」
 単純に祥子がそう言うと、慎也は苦笑いした。
「もっと上手な奴は沢山いるけどね」
「でも、26歳で在学中ってことは、…あれ? 音楽学校ってそんなに在期長いんでしたっけ?」
「いや。単に、俺は23歳で入学したっていうだけ。元々、別の大学を卒業して一旦就職したんだけど、昔の夢が諦められなくて学生に逆戻りした、というわけ」
「夢、って、ピアニスト?」
「そう。俺ん家、特別そういう家系って訳じゃないんだけど、きょうだい揃って音楽やっててさ。俺は10歳でピアノやめるまで、結構上の大会とか出てたし」
「10歳でやめたの?」
「20歳でまた始めたけど。それから3年間勉強しなおして、音楽院に入学して、今に至る、と」
 自分でも笑っちまう、と慎也は声に出して笑った。
「なんか…すごいですね」
「まあ大変だけど、遣り甲斐のある人生だとは思うよ。目標があるってのは、やっぱり楽しいよな」
 その、慎也の自信みなぎる笑顔に、祥子は嫉妬にも似た感情を覚えた。
 ───ここにも、目標を掲げている人がいる。
「私は、やりたいことを探してる最中なんです。今まで何もしてこなかったから」
「今の職業は? アルバイターなの?」
「え…と、一応、本職みたいなものを他にやってるんですけど」
「どんな仕事?」
 うっ、と祥子は言葉に詰まった。つっこまれるとは思ってなかったのだ。
「言いたくないならいいけど」
「いえ、説明が難しいだけです」
 あまり、この職業を説明したことが今までになかった。そういう役目は史緒のものだし、祥子には個人的に説明するような知人もいなかったのだ。
 頭を抱えて祥子が考え込んでいると、
「シンちゃん。お話中悪いけど、ピアノお願い」
 カウンターの中から可憐が申し訳なさそうに声をかけてきた。慎也はすぐに立ち上がった。
「へーい。あ、三高、何かリクエストある?」
「え」
 突然の質問に、祥子はきょとんとした。
「ピアノで、好きな曲とか」
「え…、あ。じゃあ、初めて会ったときに聴いた曲」
「おっけ」
「あの曲、何て言う曲なんですか? どこかで聞いたな、と思って」
 何気なく尋ねた質問に、慎也はわざわざ立ち止まり、祥子を振り返った。驚いた顔をしていた。
「それはないと思うよ」
「え?」
 きっぱりと言い切られたことに祥子も驚いた。
「あれは市販されてる曲じゃないんだ。クラシックでもない。16年前のピアノコンクールで、優勝者が弾いた曲、っていうだけだから」
「──…」
 てっきり祥子は、よくあるクラシックだと思っていた。CMや有線で片耳に聴いたものだろう、と。
「…それじゃあ、気のせい、ですよね」
 釈然としないものを感じながらも、祥子は頷いた。
 確かに、耳に残っているような気がするのに。
「何か似てる曲があるのかもしれないな。俺は心当たりないけど」
 そう言うと慎也は踵を返し、人と人の間を擦り抜け、壇上のピアノへと向かう。
 祥子のリクエスト、「あの曲」を弾き始めた。
(……やっぱり、どこかで)
 聴いたことがあるような気がする。
 漠然としたイメージだけを頼りに、思い出を手繰り寄せる。
 でもだめだった。全然分からない。
 特に記憶力が強いというわけでもないのに、どうしてこんな風に思うんだろう。
 ピアノの曲に、勿論、縁など無いはずだけど。
(────…)
 そこまで思考を巡らせて、祥子は後悔した。
 ふー、と深く息を吐いて、こめかみの部分をコンコンと拳で叩いた。
 高校時代のことを思い出してしまったから。
 一度だけ、「彼女」のピアノ演奏を聴いたことがあった。

 音楽を嫌いと言った彼女、その演奏を、一度だけ聴いた偶然。放課後の、音楽室で。
 音楽家になりたかったのだと言った。
 でも諦めた?
 どうして? 死神に追われていた、と。
《ねぇ、聞いて欲しいの、私のこと》
《待ってるから。来て》
《あんたじゃなきゃ、言えない────…》

 思い出してしまうともう止まらない。
 その日、慎也のピアノを聴いて、祥子は深い悲しみへと、身を投げた。

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