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「痴話喧嘩か?」
 食卓について夕飯に箸をつけながら、三佳は言った。祥子が今夜ここに泊まると聞いた後に。
 そのことについて三佳は嫌な顔をしなかったが歓迎したわけでもなかった。前にも言ったが、三佳は祥子が嫌いなのではなく、祥子と史緒が顔を合わせるその場所に、自分も身を置くというのが嫌なのだ。
 会話はいつも(祥子の一方的な)喧嘩腰、さらに史緒はそれを煽っている節がある。それでいてお互いの心根が分かっているような関係だから、端から見ていると馬鹿らしいことこの上ない。
 素直じゃない。二人とも。
 昔に比べればマシになったものの、やはりこの二人とは関わりたくないという思いが三佳にはある。
 当然、祥子の痴話喧嘩にも関心は無い。ただ、祥子と付き合える男、というのには少しだけ興味が湧いた。
 祥子がすんなり答えるわけないので、三佳は史緒に振った。
「史緒は? 祥子の相手と会ったことあるんだろ?」
「あるけど」
「どんな男なんだ?」
「三佳っ」
 祥子が噛み付いてきた。無視した。知られたくないならここへ来なければいいのだ。
 史緒ほど、三佳は甘くない。
 その史緒は平然と、差し障りの無いことを答えた。
「別に。普通の人だったわよ?」
 祥子に気を遣ったのか、それとも本当に普通でしかなかったのか。(最も何を普通と呼ぶかは意見の別れるところだが。そしてそれが良いのか悪いのかということも)
「祥子より年上だけど、あれは社会に出てる人間じゃないわね。学生? …そうね、健太郎みたいなタイプかしら、うちのメンバーで例えると」
「へー」
「全然、似てないじゃないっ」
「三佳に分かり易くタイプ別しただけよ。──それから、私が会った時の彼は、祥子のことをよく知らないようだったけど」
 史緒は勿論、言外の意を込めて言った。三佳はすぐに気付いたようで、箸を止め、祥子の顔をちらりと伺う。
 祥子も史緒の言いたいことは分かった。
 この力──他人の喜怒哀楽や、より複雑な感情を受信してしまう祥子のことを、彼女と付き合う人間が了解していなければ、所詮は上っ面だけの関係ということだ。
 祥子はしばらく呆然として、
「……言ってない」
 と、小さく答えた。そういう問題もあることを忘れていたかのように。
 では、少なくとも祥子の力のことで、日阪から逃げているわけではないのだろう、と史緒は目星をつけた。それだけ分かれば今は充分だ。
 祥子をこれ以上落ち込ませない為と、食事をまずくしない為に、史緒は別の話題を口にした。
「三佳のほうはどうなの?」
 まあ、史緒が今日の天気の話題など持ってくるはずがない。三佳にお鉢が回ったようだ。
「何が」
「志望校が決まらないって言ってたでしょう。担任の先生からも手紙が来てたし」
「それは昨日、提出した。一生徒の志望校なんて、担任には関係無いだろうに」
「期待されてるんじゃない? 成績だけは良いみたいだから…───どうかした? 祥子」
 祥子が眉をひそめて三佳と史緒の会話を聞いていたからだ。名指しされて驚いたのか、少々取り繕う間があってから、空咳を一つ。意外さを隠し切れない様子で祥子は言った。
「いや、本当に保護者やってるんだなぁと思って」
 5年前、祥子がA.CO.に入った時、すでにこの二人は一緒に暮らしていた。当時、三佳は10歳になる年で、史緒が親代わりだったのは知っている。
 二人の私生活にはあまり関わってこなかったので、改めて目の当たりにすると驚いてしまった。
 しかし、三佳は大きく異論があるのか祥子を一睨みすると力説を始めた。
「馬鹿言え、面倒見てるのはこっちだ。いい年して家事能力ゼロだし、放っておけば事務所で寝てるし、不摂生の自覚が無くて、なまじ体がタフだから倒れるまで気付かない馬鹿。…昔から甘やかしてたのが悪かったんだろうが。私のほうが保護者気分だ」
 不機嫌さを隠しもせず溜め息をつく三佳の言葉に、史緒は肩を竦めて苦笑した。
「はい、すみません」
 これではどちらが子供だか分からない。
 祥子は、日阪のことを忘れて笑うことができた。


*  *  *


 毎年この季節に送られてくる往復ハガキは、高校の同窓会の知らせだ。
 東京都立佐城高等学校1998年度卒業3年3組。恒例「7月会」。
 今年で5回目。
 祥子は一度も出席したことがない。それでも、毎年ハガキはやってくる。
『三高さん、いい加減顔出してよ! 待ってるからね! 今年の幹事:松尾・北川』
『会費制。飛び入りもOK!』
 ハガキの隅に、手書きの文字。
 何故よりによって7月に? ───理由はある。知っている。
『今年も有志でG県K市に行くの。三高さんも行かない?』
 3年3組は同じメンバーによる2年3組の持ち上がりクラスだ。
 2年3組────その、7月。
 一人のクラスメイトが、亡くなった。
 彼女は、明るくクラスの人気者で、面倒見が良くて勉強もできて…。
 7月に同窓会を行うのは、そんな彼女を、皆、悼んでいるからだ。
 悲しい出来事だった。

 中村結歌───。
「俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ」
 慎也が言った言葉が、頭の中で繰り返されている。
(同姓同名の他人)
(きっと、そう)
 史緒が用意した客間のベッドの中で、祥子はきつく目を閉じた。
 暗闇の中で、自分の鼓動だけが鳴り響いていた。祥子はそれに耳を傾けた。だってそうでもしないと。
 何か他のものが、音をたてて近づいて来そうな気がして。
 時間とともに薄れていた罪の意識に、心臓を掴まれそうな気がして。
(違う…)
 歯を食いしばると、顎が震えているのが分かった。
 ───この子は、僕の尊敬する演奏家
 ───今頃何をしてるんだろ
(違うっ、別人に決まってる)
 枕を掴む腕が、まるで痙攣しているかのように揺れた。
(別人───…のはず、ない)
 同姓同名の他人だと思いたいのに、同一人物だと確信してしてしまっている自分がいる。
 慎也の部屋のスクラップだって、写真の女の子が、彼女の昔の姿だとは限らないのに、慎也が追い続ける少女が中村結歌だとは限らないのに。
 けれど分かっていた。
 ピアノ、…音楽。ただそれだけで。
 慎也は10歳の時からずっと、あの中村結歌を探し続けているのだ。
「…なんで?」
 こんなところで、その名前が出てくるとは思わなかった。
 彼女はもういない。6年前に死んだ。
(…私のせいかもしれない、のに)
 口に出して言ったことはない。
 しかし6年間ずっと、祥子にはその負い目があった。
 あの日、祥子が約束の場所へ行けば、きっと何かが変わっていた。変わっていたはずだ。
 あの日、母の和子が倒れ、朝から病院に駆け付けていた。祥子は結歌と会うことはなかった。
(私のせいかもしれないのに…っ)
 ───どうして慎也の部屋から逃げ出したりした?
 どうして、言えなかった? 彼女はもう居ないって。本当のことを。
 同一人物だという確証がない? 馬鹿みたい、分かってるくせに。
 違う。そんなことじゃない。
 慎也が結歌の名前を口にしたことは勿論驚いたけど、それだけじゃなくて。
 まだ6年。
 まだ6年しか経ってない。あの悲しい出来事から。
 彼女を失ったこと。自分ができなかったこと。
 彼女が残した言葉の数々。
 あの夏の暑さ、空の青さ、アスファルトに落ちる影の濃さとか、風や街路樹の色。それら全て。
 まだ、口になんてできない。
 6年経つ今でも、一人泣いてしまうことがある。
 彼女の名前だって、簡単に言葉にできない。耳にするのだって辛い。
 まだ思い出にならない、過去だから。

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