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健太郎との電話を切った後、事務所で一人業務をこなしていた阿達史緒は意外な訪問者に驚いていた。
いや、気の毒がっていた。
(惜しい、あと一時間早く来れば会えたのに)と、思っても口には出さない。慰めにはならないだろうし。
ドアのノックの音の次に現われたのは、日阪慎也だった。祥子が出て行ってから一時間後のことだった。
「いらっしゃい、日阪さん。今日はどんなご用件で?」
愛想良い笑顔を向けながらも、史緒は内心で(どうして彼がここに?)と考えていた。
(そうか、名刺渡してあったっけ───)
祥子も、日阪がA.CO.の場所を知らないと思って、自分の部屋へは帰らずここへ逃げ込んだのだろうが、盲点だっただろう。一度、日阪と会っている史緒が名刺を渡さないわけないという可能性さえ考えないのは浅はかというものだけど。
もしかしたら明日…早ければ今夜には、二人の山場が見られるかもしれない。
史緒にとって所詮は他人事。巻き込まれるのなら楽しませてもらおう。そして最後には賭けに勝ちさえすればいいのだ。
慎也は問いただすように言った。
「三高がアパートに帰ってないようなんだけど」
「そうみたいですね。でも寝泊まりしている場所は分かってますから、心配する必要はありませんよ」
わざわざ祥子がここに泊まったことは教えてやる必要はないだろう。
「じゃあ、ここには顔出してるんだ?」
「ええ。今朝も来ましたけど。すぐに出かけました」
「俺のこと、何か言ってた?」
ということは何かあったということか。史緒は本人に気付かれない程度に白い目を向けた。
いや、何かあったということは、祥子が泊めて欲しいと言ったときから…いや、ドアの前に座り込んでいたのを見たときから分かっていた。
「…それは私が訊きたいです。何があったんですか?」
逆に問い掛けると、さらに日阪は質問を返してきた。
「三高の様子は?」
史緒は溜め息をついて答えた。
「本人の言葉を借りるなら、“落ち込んでる”そうですよ」
その後、日阪は、先日祥子と何があったのか話し始めた。
「…俺も訳が分からないんだけど、話の途中で突然帰るって言い出して」
用事があるので帰る、と言っていたがあれは嘘だ。日阪は気付いていた。
「話って…。どういう話をしてたんですか?」
日阪はちょっと考え込んでしまった。色々他愛も無い話をしていたはずだけど、別に気を悪くさせるような話題は無かったはずだ。逃げられてしまうようなことも、した覚えはないけど。
本当に、何故祥子があの時逃げ出したのか、日阪は分からないでいる。
今度付き合ってもらうパーティのチラシとCDを渡す為に部屋に寄ってもらって、そこでいろいろと話をした。
日阪の家族のこと。祥子の仲間関係のこと。
「それだって、別に暗い話じゃなかったし」
と、日阪は言う。それからー、とさらに記憶を辿る。史緒は大人しく耳を傾けていた。
「そう、それから、三高がスクラップのこと聞いてきたんだ」
「スクラップ?」
「俺の部屋、新聞や雑誌の切り抜きがごちゃごちゃ貼ってあって…───」
黙って聞いたいた史緒は、突然、弾かれたように、日阪へ目をやった。
そして次のように言った。
「どうして日阪さんが中村結歌を知ってるんですか?」
驚いた史緒の台詞を聞いて、日阪も目を見開いて驚いた。
「え…っ、そっちも?」
そして祥子がここにいたら、史緒が「中村結歌」の名を口にしたことに酷く驚いたことだろう。祥子は6年前からその名前を口にしていないし、史緒と出会った5年前からその話題を出したこともない。
───史緒はほんの少しの事実だが、知っていることがあった。中村結歌というその名前と、祥子と同級生であったこと、それから彼女の今現在について。
「史緒さんも知ってるのかっ?」
日阪は史緒に詰寄った。まさか史緒の口からその名前を聞くとは思わなかったのだろう。
「落ち着いて下さい。…まず、日阪さんが知っている中村結歌について教えていただけませんか」
何故、祥子のかつての同級生が、新聞雑誌の記事になりスクラップされるような人物だったのか。ただの女子高生ではなかったのか。
その辺りの、自分の認識の齟齬を修正する為に、史緒はまず日阪に尋ねた。
日阪は、中村結歌について語り始めた。
天才ピアニストと騒がれていた7歳の少女がいたこと。16年前に音楽界から消えていることなどを。
「そっちはっ? どうして知ってるんだ?」
日阪は真剣な顔で叫んだ。
(……)
史緒は内心で頭を抱えていた。どうも、自分が把握していた中村結歌と、日阪の言う人物像は噛み合っていないようだ。
けれど、日阪の言う7歳の中村結歌と、祥子の同級生である17歳の中村結歌を同一人物と見なすことに、否定する材料はない。勿論、確証も無いわけだが。
「……回答しかねます」
確信のないことは口にしない主義。しかしそれ以前に、ここで「祥子の同級生だった女子高生です」などと答えたら、後から祥子に殺されそうな気がする。(勿論、比喩だけど)
「頼むよっ、俺は、ずっと、彼女を探し続けて来たんだっ」
「……え?」
史緒は眉をひそめた。
「探して、どうするんですか?」
「会ってみたいと思ってる。…できればだけど」
(中村結歌と、会う?)
そんな馬鹿な。
(そうか)
日阪は7歳の頃の中村結歌しか知らないんだ。彼女の現在を、知るはずもないのか。
史緒はやっと、祥子が日阪のもとから逃げ出した理由を悟った。
(──…これは)
珍しく史緒は、心から、祥子を気の毒に思った。
「史緒さんっ、頼むっ、彼女について知っていることを教えてくれっ」
「───それは、うちへの依頼と受け取ってよろしいですか?」
は? と、日阪は面食らったようだった。
けれど史緒は事務的な声で続ける。
「この間、名刺を渡しましたよね。A.CO.───うちは興信所業務を行っているんです」
今まで気付いていないことだったが、日阪は祥子(延いては阿達史緒)の「本業」なるものの詳細を知らなかった。
興信所? 日阪は思わず室内を見回してしまった。
そして目の前に立つ阿達史緒は所長だという。年齢を尋ねたことはなかったが、祥子と同年代には違いない。20代前半の女性がトップを努める組織とは一体どんなものだろう。
「日阪さんの言う中村結歌という人物について、こちらで調査し、その結果を日阪さんに報告致します。依頼内容に間違いありませんか」
「あ、でも。そういうのって、家族とかじゃなきゃ受けられないんじゃ…」
「興信所が個人の調査をその家族でなければ引き受けないのは、プライバシーだけの問題です。今回は特別に引き受けてもいいですよ」
「……史緒さんが、今、知ってることだけでもいいんだけど」
「こちらも情報業ですので、簡単に口にはできません」
プロとしての表情で史緒は断わった。
「でも俺、そんなに金持ってないよ。貧乏学生だから」
「今回は無料です。…どうせあなたと祥子がくっついたら賭けの配当が入るし」
「は?」
「いえ、なんでも」
こほん、と空咳をして史緒は話を切り替える為に雰囲気を改めた。
「祥子のことは───…もう少し放っておいてあげてくれませんか。私がこんなことを言える立場でないことは分かってます。でも祥子にも、色々と事情があるようなんです。祥子は必ず、自分で答えを持ってくるから」
こんな台詞、祥子の前じゃ絶対口にしない。史緒はそれを自覚しているけど、嘘でも建前でもなく、これは本心だった。
日阪は少し不服そうな表情を見せて、何か言いかけたが結局黙り込んでしまった。
史緒はピンと思いついたことがあって、それをすぐに日阪に訊いてみた。
「これは例え話ですけど、もし、今、中村結歌と三高祥子の居場所をどちらかだけ教えるとしたら、日阪さんはどちらにします?」
意地悪な質問であることは承知しているが、本心を計るいい質問だと思う。
「三高だ」
日阪は即答した。史緒は眉を上げて少しだけ驚いた。
「どうして?」
「別に、ただ優先性を考えた結果というか。…三高が逃げた理由を、まず知りたい。俺が何か気に障ることをしたなら謝りたいし、史緒さんが言う通り何か事情があるなら、それも聞かせて欲しい。こんなことで、付き合いが終わるのは嫌なんだ」
日阪の返答を聞いた史緒は、視線を逸らし目を細めた。
何と言うか、どうも言葉が足りないようだけど。
(まぁ、合格かな)
と、史緒が思ったことは勿論日阪は知らない。
日阪は帰りがけに「あ」と振り返った。
「何ですか?」
史緒が言うと、日阪は笑った。
「俺も一つ聞きたいんだけど、史緒さんは三高と付き合ってて苦労することがあるわけ?」
「ありません」
と、答えてしまってから、史緒は(しまった)と後悔した。迂闊だった。
日阪はこの回答は予測していたようだ。そしてその答えに満足したように、したり顔で、
「それなら俺も、苦労なんてしないで、三高と付き合えると思うな」
と、言った。
初めて会った時、史緒は「祥子と付き合うのは苦労しますよ」と忠告めいた発言をしていたのだ。それを覚えていたのだろう。それに先程の史緒の意地悪い質問と同様、日阪は史緒の本音を計る質問をしたのだ。
侮れない…という史緒の不穏な視線に気付かないまま、日阪は帰って行った。
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