/GM/11-20/12
10/14

2-6
『もしもし? 中村茅子ですけど、分かるかしら』
 翌朝、出かけようとしていた矢先に、祥子の携帯電話が鳴った。
 中村茅子。意外な人物からの電話に祥子は驚いた。
「あ、はい。先日はお世話になりました」
『こちらこそ。…あのね、ごめんなさい、今日会えないかしら? 実は私のほうも訊きたいことがあったの…』
 申し訳無さそうに告げる茅子に、祥子のほうは特に断わる理由もないのでそれを了解した。
 そういうわけで、祥子はまた中村茅子のマンションへお邪魔することになったのだ。

「いらっしゃい。ごめんなさいね、何度も足を運ばせちゃって」
 訪れた祥子を、茅子は丁重に迎えてくれた。電話と同じく呼び付けたことにもう一度謝って、前回と同じ、祥子を居間へと案内した。
(…あれ)
 居間には先客がいた。
 茅子と同年代(多分)の女性。こざっぱりとしていて、若葉色のスーツを着ている。座卓の前に正座していた。
「あ、彼女も私が呼んだの。紹介するから、気にせず座って座って」
 茅子は祥子の肩を軽く押して、先客の合い向かいに座らせた。
 何が何だか分からないけど、茅子が祥子を呼び出したのは、この女性と引き合わせたかったからだろうか。「訊きたいことがある」というのは一体何だろう?
 先客の女性は、何故かさっきからこちらをじろじろと見ているし。ふつと女性と目が合って、祥子はぎこちない愛想笑いを向けた。
「あー、知ってる知ってる。この子、三高祥子でしょ」
「は?」
 祥子は驚いた。突然、名前を呼ばれたからだ。
「…え? あの」
 茅子が先に名前を教えていたわけでは無いようだし、「知ってる」と言ってるし。しかも呼び付けされてしまった。そんなこの女性に、祥子は見覚えが全くない。
(誰?)
 お茶を持って別室から表れた茅子が笑った。
「さすが、よく覚えてるわねぇ。それって職業病?」
 膝をついて祥子の前に湯飲みを置くと、茅子は祥子の隣に座った。
「あの…、初対面、ですよね?」
 おそるおそる祥子が切り出す。
「もー、これだもん。教師っていう職業も報われないよねぇ」
「えっ? 教師っ?」
 祥子は目を見開いて驚いた。この女性が祥子のことを知っているということは、過去、祥子が教わったことがある教師だということだろうか。
 祥子は高校、中学、小学校…と溯って思い出そうとするが、この女性に教わったという覚えはない。最も、祥子は教師の顔などあまり記憶に留めない質なのだけど。
「あの、ごめんなさい。分かりません」
「それもしょうがないかな。…ほら、佐城高で。あなたが2年の時だと思うけど、音楽の臨時教師やってたの、私。もっとも4ヶ月だけだったから印象少ないと思うよ。それに三高さん、結構サボってたしね」
「音楽…?」
 2年といえば、ちょうど結歌とのことで色々あった時期だ。祥子自身よく覚えていないが、この人の言う通り、授業をサボっていたのかもしれない。
 それにしても、そんな人物とこの場所で再会するとは思わなかった。
「改めて、こんにちは。お久しぶり、巳取あかねです」
「巳取ちゃんはね、結歌の両親とは同級生だったの。小さい頃の結歌のことをよく知ってるのよ。三高さん、結歌のこと色々訊いてたじゃない? 巳取ちゃんなら色々知ってるから、訊いてみたら?」



「結歌は才能あったよ。全国で優勝して将来を期待されてた…」
 そんな結歌は、両親の死後、茅子のところへ行くと言い張ったという。地元には両親の実家もあるのに、わざわざ東京へ行くことを望んだのは結歌自身だった。
「私はてっきり、東京でピアノを習うつもりなのかなって思ってたの。コンクールで有名になってたから、その手の誘いは引く手数多だったしね。そう、私も納得してた。でも後から聞けば、ピアノをやめたって言うじゃない。驚いたわよ。ピアノをやめる為に東京へ逃げたんだって思ったら、怒りさえ覚えたわ」
 ある時、あかねは結歌を探し始めたのだという。
 音楽をやめた理由を問いただす為。説得する為。
(日阪さんと同じ…)
 と、祥子は思った。あかねも結歌を探してきた一人なのだ。
 あかねが結歌の居場所をつきとめたのは、結歌が高校2年のときだった。
「一発ひっぱたいて、私が言いたいことは言うことができたから気は済んだけど、夏休みに入ってすぐに、あの事件でしょ? …あれには、…参ったわ」
 深い深い溜め息が響いて、少しの沈黙が生まれた。
 祥子にも、覚えがある。
 夏休みに入って数日目のこと。突然のクラスメイトからの電話。
 祥子は、電話の前に立ち尽くした。
 何を言われたのか分からず、それを理解するのには時間が必要だった。
 あかねはあの悲しい知らせをどうやって聞いたのだろう。
「…そういえば巳取ちゃん。智幸の手紙がどうたらって言ってたわね」
 沈黙を埋める意味もあったのだろう、茅子が口を挟んだ。
「あーあれねー。結局、見つからないまま。何が書いてあるのか興味あったんだけどな」
「え? 何ですか?」
「私ね、結歌の父親から手紙を預かってたの。結歌に渡すように」
「結歌の父親っていうのは、つまり私の弟よ」
 と、茅子が付け足す。
「…でも、ご両親は確か」
「そう。もうとっくに亡くなってるけど、その手紙を渡すように頼まれたのは、なんと結歌が生まれる前なの。“子供が大人になったら渡してくれ”って。その子供が生まれる前によ? 変な奴よね〜」
「巳取ちゃん。私の弟だってこと、忘れないで発言してね」
 ジロッと茅子に睨まれて、あかねは慌てた。
「そ、そんな冗談ですよぉ、茅子さん」
 あかねはその手紙を、結歌に渡すことができた。計算すると、17年間、あかねはその手紙を預かっていたことになる。そして17年後、無事、結歌はその手紙を受け取った。
 しかし。
「どこにも無いの。その手紙」
「え…」
「結歌は確かに読んだはずよ。でも部屋にも、バッグの中にも無い。結歌自身も持ってなくて、後から隅々まで探したんだけど、結局見つからず終い」
 父親が娘に宛てた手紙。
 娘が生まれる前に認められた手紙は、娘が受け取った時、父親はすでに死んでいた。
(……何か)
 祥子はふと思った。けどその思いが不謹慎であることを承知していたので、声には出さない。
 何か、その手紙の経緯を考えると。
 結歌の父親は、自分が死ぬのを分かっていたかのようだ…。
 どんな手紙だったんだろう。
 何が書いてあった?
 結歌はどんな思いでそれを読んだんだろう。
 受け取ったはずの手紙が消えたということは、結歌が処分したと考えるのが妥当だろうけど、それは何故? 捨てたのか、誰かに渡したのか。誰かが持ち去ったとか……これは無いだろうけど。
「三高さん?」
「え…、あ、はい!」
「そろそろ本題に入ってもいいかしら?」
「え? 本題って…」
「いやーね、“訊きたいことがある”って言ったでしょ?」
「あ」
 茅子は確かに、電話でそう言っていた。訊きたいことがあるから、来て欲しいと言っていたのだ。
「あのね、結歌、死ぬ前の晩、楽譜を書いてたみたいなの」
 と、茅子が切り出した。
「え?」
 何の事だろう? と思ったが、祥子は茅子の発言に素直に驚いた。
(楽譜を書いていた?)
 それは想像し難いことだった。何故なら、結歌はピアノをやめただけでなく、音楽をやめていたのだから。
 その結歌が楽譜を書くなんて、物凄い心境の変化があったとしか思えない。
「理由は分からないけど、結歌の机の上に5線紙が散らばっていたの。書き損じは無かったけど、ノートが破られてたから、書いたページはどこかへ持って行ったのね。それも、結局見つかってないわ」
 あかねは既に知っていることなのか、口を挟まずに黙って聞いていた。
 死ぬ前の晩に書いたということは、書いた楽譜を両親の墓前まで持って行ったと考えるのが妥当ではないだろうか。それとも行く途中にポストに投函したとか、これまた誰かに渡したとか。
 それにしたって、何故、結歌は突然楽譜を書く気になったりしたのだろう。
「部屋に残っていたほうの5線紙にね、その中の一枚の裏に、書き置きがあったのよ」
「───…え、書き置きって、…中村さんの!?」
「そう。でも私にはさっぱり意味が分からなくって。来てくれたお友達にも聞いてるんだけど、誰も分からないみたい。一応、三高さんにも訊いておこうと思って」
 本当は昨日言えば良かったんだけど、忘れちゃった。と、茅子は苦笑した。
「書き置きっていうより、単にメモね。咄嗟に思い付いたことを近くにあった紙に書いたって感じ。持ってくるから、ちょっと待っててね」
(…)
 祥子は自分の胸がざわついていることに気付いた。
 多分、それは中村結歌が人生最後に残した言葉だったはずだ。
 結歌は最後だなんて思わなかっただろうから、何のことはないくだらない内容かもしれない。全く意味の無い内容かもしれない。
 祥子が期待するような、「祥子に聞いて欲しかったこと」であるはずはない。誰にも言えないから、祥子に聞いて欲しかったのだ。こんな風に書き残すはずない。
 じゃあ、何?
 意味を成さないメモかもしれないのに、祥子はどこか期待してしまっている。
 そんな事あるわけないと思っても、馬鹿みたいにほんの少しの希望を持ってしまう。
(どうか…)
 祈りさえ込めて。
 ピアノをやめたことや、音楽を嫌わなければならなかった理由、恐れていた「何か」、死神…───。父親からの手紙、楽譜を書くことになった理由───何でもいい。

 ───…どうか、あなたの苦しみが少しでも分かる内容でありますように。



 茅子が渡してくれた紙片は、きれいにクリアケースに収められていた。
 表は5線紙。5線の上には何も書いてない。
 そして裏を見る。
 結歌の字だった。数行のメモ書き。
 祥子は一度目を通した。よく意味が分からなかった。
 二度目。ゆっくり読んだ。
 読んだ。

 祥子は、叫んでいた。

10/14
/GM/11-20/12