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 エレベータホールから奥の廊下へ行く途中にはカードリーダーがあって、そこにカードを通さないと奥へは進めないようになっていた。守衛の制服を着た体格の良い男が立っている。玄関口なら様になっただろうが廊下に一人立っているというのは、少々滑稽に思えた。史緒は慣れた手付きでカードを通し、守衛には目もくれなかった。
 広い廊下の両脇にドアがあり、そこに部屋があるのだと分かった。何人かとすれ違う。史緒は軽く頭を下げるだけで足を止めることはなかった。相手のほうも無表情に視線をやるだけだったが、史緒の後ろの健太郎に気付くと、少しの驚きを表していた。理由は、「学生が何故こんな所に?」であろう。
 一番奥の部屋で史緒は立ち止まった。
 プレートには「電算室」と書いてある。
(今時…?)
 と健太郎は少なからず驚いた。
 史緒がドアをノックすると、中から男の間延びした声が聞こえた。誰? と。
「阿達です」
 シュッと、軽い音をたててドアが左側に引っ込んだ。驚くことにここだけ自動ドアだった。
 途端に、微かだが空気が揺れ、微音が耳につきはじめた。それはこの部屋の中の空気だった。健太郎のよく知っている空気で、それはコンピュータの冷却ファンの回転音だった。
 入り口から見た限りではワークステーションが3台と、パソコンが5台置かれていた。そのうちアップル社のマックが1台と、ヒューレット・パッカード(HP)社が2台、国産最新モデルが1台、もう1台は無印だった。自分で組んだのだろうか、多分、DOS/V機だろう、と健太郎は思った。部屋の中は白を基調に、窓にはブラインドが降りていた。
「桟宮さん? どちらにいらっしゃるんですか?」
 史緒が部屋の中に問う。人影がなく、視界にはコンピュータしかない。
「ここだ」
 部屋の奥から声が聞こえた。
「ドアを開けたら顔を見に来てください。セキュリティを疑われます」
 半ば呆れた声を上げつつ室内に足を踏み入れる史緒に、健太郎はついていった。
 部屋の中は狭苦しかった。面積を占めているのはコンピュータや本棚で、人がやっと通れるような通路しかない。
(ここが「本部のコンピュータ」、か)
 漠然と健太郎は思った。
「ご要望通り、木崎を連れてきましたけど」
 部屋の奥の奥。A5版ノートパソコンに打ち込みをしている男がいた。史緒はその男に向かって言った。
 ブラウンのセーターにグレーのスラックス。休日の中年サラリーマンといった風貌だった。健太郎はそのような印象を受けた。年齢はその印象通り、30代半ばだろう。眼鏡をかけていて、いかにも所帯持ちというような落ち着きと優しさが表情に表れていた。
 やっと彼がパソコンから顔が上げたので、史緒は健太郎を示して言った。
「桟宮さん。彼が私のところの新人で、木崎健太郎です」
「…ふーん。例の少年か。本当に高校生なんだな」
 低すぎない、テノールの声だった。それから、優しそうという健太郎の認識は間違っていたかもしれない。眼鏡の奥の厳しい表情が健太郎を観察する。どう平和的に考えても歓迎されているようには見えなかった。それに、例の、とはどういうことだろう。
「で、ケン。この人は桟宮肇さん。組合本部のコンピュータネットワークのセキュリティ総括者なの」
「どーも」
 さして面白くもない様子で、桟宮は目を細めて言った。
「君は今度から週一ここに出入りすることになるな。…パスカードは貰っただろう? 君のIDで開くようにしとくから、次からは勝手に入ってくれ」
「はい」
「…えーと、木崎…だっけ?」
 さっき史緒が紹介したばかりなのに。
「木崎健太郎。呼び方はどうでもいいっスよ」
「んじゃ、健太郎」
「はい」
「俺に対しては敬語使わなくてもいいよ。それより、数字の0から9までを二組に分けて、それぞれの数字をすべて掛け合わせた場合二つの積が等しくなる組み合わせを答えろ」
 真顔で、桟宮はそんなことを言った。それは突然だったが、健太郎もすぐに応対した。
「そんな組み合わせはない。…これは小学生でも分かるだろ。片方は必ず0になり、もう片方は1以上の整数になる」
 健太郎はすでに敬語を使うことを放棄していた。桟宮は続けた。
「では、1から10では」
「それもない。原因は7があるからだ。片方は7の倍数になるけど、もう片方は7がないので等しくはならない」
「16進数で14を表すのは」
「E」
「2百5十6掛ける2百5十6」
「65535」
 ロク・ゴー・ゴー・サン・ゴ、と健太郎は発音した。位を省略しているのには気付いたが、最下位の間違いに、史緒は首を傾げた。
「え? 6万5千5百3十6でしょう?」
 突然、桟宮は声を上げて笑い始めた。大声で。机を叩きながら。
 簡単に止まらないようで、でもそれを抑えようともしないで笑っていた。健太郎は桟宮への印象をまた書き換えなければならない必要を感じた。健太郎と史緒は訳が分からず顔を見合わせた。
 桟宮はどうにか笑いが収まりかけた頃、健太郎に訊いた。
「今、計算したわけじゃねぇよな?」
「うん、これは単なる知識」
「阿達は計算したんだろう?」
「はい」
「今の質問で、健太郎がある程度コンピュータを知ってるっていうのが分かったよ。阿達は計算速度は速いようだが、コンピュータに関しては使えるっていうだけで知ってるレベルではないな。ま、どっちも正解だ」
「数学に二つの答えはないはずです」
 ぴしっと史緒は言い切った。本部の会議でも史緒は辛口の発言を惜しまないので、煙たがられているのは自覚している。桟宮は微笑んで言った。
「数学的に阿達は正解。コンピュータ的に健太郎は正解」
「釈然としないんですけど…」
 と、史緒は返そうとしたがそれはやめた。ここで食い下がっても大人気無いと思ったのかもしれない。桟宮は続けて解説した。
「コンピュータの世界ってのは便宜上16進数で表すことが多い。そして16進数は0から数え始めるものなんだ」
 16進数は、0から9、9より大きい数はAからFで表す。その次が桁上がりして10になる。
 10進数も0から9で表すはずなのに、ものを数えるときは大抵1から数え始める。これは多分に、0が「何も存在しない」意味を表しているからかもしれない。けれど16進数ではとにかく「一つめは0」とカウントするのだ。
「256は16の平方(2乗)だ。256個のドットが書かれた紙が256枚あるとして、ドットがいくつあるのか、それを0から数えた場合答えは65535になるだろう? 16の平方値(256)の平方がその数字。知識として覚えてる奴がほとんどなのさ。コンピュータの業界にハマる連中は、まず、ものがまともに数えられなくなるよ。位を省略して読むのは16進数の読み方に慣れてるからだな」
 そこまで言われなくても、桟宮が健太郎を試していたことに、史緒も健太郎も気付いていた。
「高校生の割にはやるじゃねーか」
「それくらい、授業でやるよ」
「生意気だなぁ、おまえ」
 不敵に笑いつつ、桟宮は言う。
 健太郎も桟宮のことを気に入っていた。知識に関しては頼れる人のようだし、頭の回転も速い。数学とコンピュータの理解力を試す質問にしては、かなり的確だったと、健太郎も思う。


 桟宮は史緒を先に退室させてから、声を潜めて健太郎に言った。
「阿達から何も聞いてないのか? おまえが起こした事件のこととか」
(事件?)
「別に。なんにも」
 全く心当たりがない。健太郎は深く考えなかった。
 あ、そう。と桟宮は面白そうにくくくっと笑ったようだった。放っておくと、また、大声で笑い出しそうなので健太郎は逆に質問してみた。
「所長クラスしかここに出入りできないのか?」
「いや、そうでもねーよ。他のグループの奴等は結構顔出すよ。まぁ、この部屋だけは入室規制がかなり厳しいけどな」
「さっき、簡単に入れたくせに」
「うるせー」
「じゃあ、俺んちのメンバーも知ってるの?」
「阿達のところ? いや、あいつは自分の駒を連れて来たことないよ。関わらせたくないんだろ、この組織と」
「なんで」
「そのうち分かるさ」
「ずりぃー」
「1から10までの数字を使って、四則演算だけで全ての桁を同じ数字にするには? 組み合わせはいくつかあるけど」
「すべて足せばいい」
 それこそ幼稚園レベルの数字パズルだ。話題を逸らされたと健太郎は口を尖らせたが、桟宮は単に会話を楽しんでいる節がある。
 やっかいな相手だ、と健太郎は思った。いや、呆れたのかもしれない。

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