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 阿達史緒と初めて会ってから10日目のこと。
 その日、祥子は和子に頼まれたおつかいで、いつもとは違う下校ルートを通っていた。
 病院の最寄りの郵便局に、局留めで和子宛ての荷物が届いているので取ってきて欲しいとのこと。別に初めてのことではないので、祥子は難なく郵便局へたどり着いた。受け取った荷物は小さく、本かなにかだろうか? 鞄に入るサイズなので鞄に入れ、祥子は郵便局を後にした。
 郵便局から病院へは川沿いの道を通る。その途中には土手に沿う広い公園があって、祥子はその中のコンクリートの通りを歩き、病院へ向かっていた。そのときのことだった。
「こんにちは」
 ぽん、と。軽く肩を叩かれた。
 祥子は大声で叫んだ。
 突然のことに驚いたのと、その声の主に驚いたのと。
 振り返らなくても判っていた。背後には阿達史緒が立っていた。
「また…っ」
「考えてくれた?」
 と、いつものように笑う史緒は、強い風に髪をなびかせて、同じく白いコートの裾をなびかせていた。
「冗談じゃないわ」
 迂闊だった。と祥子は思ったけど、それは違ったかもしれない。祥子のいつもの行動パターンには無いこの場所で史緒に捕まったのは、史緒がよほどうまく尾行していたのか、まさかと思うけど単なる偶然か。
 ああ、やっぱり迂闊だったのかもしれない。いつも登下校は注意していたのに、アンテナを張り巡らせていたのに、今日はそれを怠っていたから。
「この間会ったときから、出向くの3回目よ。うまく逃げてるのね」
「何のこと?」
 しらばっくれても、多分史緒にはもう通じない。
 この10日の間、下校時に阿達史緒の気配を感じたことが数回あった。目視で確認したわけではないが、感じるまま、祥子は逃げていた。今日も同じように注意していれば避けられたかもしれないのに。
 でもいつもは人混みの中だから逃げられるのだ。こんな閑散とした、広い公園の中では史緒を撒くことはできないだろう。何にせよ、こんな場所を通ったことと注意不足がこの結果を招いたのだ。祥子は激しく後悔していた。
 それに祥子はもうひとつの気配にも気づいていた。この間も阿達史緒と共にいた長身の男、彼もすぐ近くにいることを祥子は気づいていた。
「この前、言ってたでしょう? うちに入ることで何のメリットがあるのかって」
「…ええ」
「利点ならあると思うわ。…失礼だけど、三高さんのお母様、入院されてるとか。三高さんて今2年生よね、卒業まで丸1年あるわ。入院費とか、生活費とか、心もとないんじゃないかしら」
「本当に失礼よっ! それに余計なお世話だわ、何が言いたいのっ?」
「うちで働いてくれるなら、そういう金銭面の心配はいらないっていうことよ───それに」
 史緒は祥子を指さした。
「そのちから、うまく使うことができるわ」
「───」
 祥子は自分の顔がひきつるのを感じた。まさか史緒は気づいているのだろうか。その言葉が、祥子の心を揺さぶることに。
 昔から。史緒に会うよりずっとずっと以前から、あの夏より遠い子供の頃から。
 このちからが何かの役に立てばいいと思っていた。できれば誰にも気づかれないまま。ずっと願っていた。
 その結果、去年の夏でのようなことが起こったわけ。何の役にも立たない、ひと一人救えない、その無力さに愕然とした。だから本当は、史緒のその誘いの声はとても甘く聞こえる。
 けれど。
 阿達史緒という人格に対する敵愾心がそれを凌駕する。その気持ちが、
「そういう風に、他人に扱われるのも気に入らないわ」
 という言葉になる。史緒は上目遣いで答えた。
「じゃあ、他に何かの役に立つの? それ」
 むかっ、と、よほど吐き捨てそうになった。素直に純粋に頭にきた。
 突然くすっと、史緒は笑った。自分の中の発想がおもしろかったのだが、そこまでは祥子にはわからない。
「陳腐な手段で申し訳ないけど」
 と、顔を上げる。
「?」
「学校の人達に、言いふらす…って言ったらどうする?」
 は? と、祥子は眉をひそめたが、すぐにそれの意味するところがわかった。
 正当手段が通じないと思ったら次は脅迫か。意外とつまらない人間───いや、もしかしたら、手段を選ばない人間なのかもしれない。
「誰も信じない」
 強気な態度で答える。けれど史緒がひるむ様子はなかった。
「そういう駆け引きは通用しないわ。信じようが信じまいがバラすって言ってるのよ」
「───っ」


*  *  *


 公園の敷地内、史緒たちから50メートル程離れたところには七瀬司と島田三佳も来ていた。
 芝を背にベンチに並んで座り、史緒と祥子の姿を遠くから眺めている。司はサングラスと白い杖を手に持っていた。サングラスをかけないのは、三佳をさらう誘拐犯に勘違いされないためでもある。杖を持ち歩いているのは、自分が障害者だとアピールするためである。不本意だけど。
 もちろん、史緒と祥子を眺めているのは三佳だけだが、実は司も、2人の様子をうかがい知ることができていた。
 司と三佳はそれぞれ片方の耳にイヤホンをつけていた。そのコードはぐるぐるごちゃごちゃになりながらも、司のコートのポケットの中、無線の受信機につながっている。
「今どきこんなレトロなもの、使うとは思わなかったな」
 ぐるぐるごちゃごちゃのコードに呆れて三佳は嘆息しつつ言った。右耳のイヤホンからは史緒と三高祥子の会話が聞こえる。アンテナをおおっぴらに出せないので、ノイズが耳についた。
「別にレトロなわけじゃないんじゃない? だって」
 司は左耳にイヤホン。
「コレ、盗聴機だし」
 そういう用途ではまだまだ一般(?)に使われている。
 携帯電話が普及してから無線のトランシーバは久しくなったものの、こちらは現役だ。
 盗聴機と通信機の大きな違いは単方向か双方向かというこで、盗聴機は単方向。つまり、こちらの会話はむこうには聞こえない。
「史緒のやつ、本当に陳腐な脅し文句だな」
 繰り返すが、史緒と祥子の会話はこちらにも聞こえている。そしてこちらの会話は向こうには聞こえないものだから2人は思い切りの良い辛口批評を始めた。
「でも効果はあったみたいだ。どうやら三高祥子さんはこういう駆け引きに慣れてないみたいだね」
「相手の狙いが何なのか理解しなけりゃ、交渉にもならないのに」
「そのあたりは普通の高校生。史緒には敵わない、か」
 敵う敵わないの問題ではないような気がする。
 相手は本当に普通(ではないかもしれないが)の女子高生だ。駆け引きとか交渉とか、そんなものに慣れているわけがない。
 同年代という枠組みでは史緒も分類されるが、あれは大きな例外だ。
「…」
 そこまで考えたところでふと思い立って、三佳は耳からイヤホンを外してみた。
 その動作が伝わったのか、司が顔を向ける。
「どうかした?」
「…ちょっと、おもしろい」
 ぽつり、と三佳は呟いた。
 イヤホンを外したのは、音声を抜いて見てみたかったからだ。
 祥子と史緒が立ち話している光景を。
 遠くで10代の女が2人、何やら言い合っている。あまり仲良さそうではないが、それは本音を言い合っていると良い意味に置き換えると、まるで友人同士のように見えなくも無い。
 会話の内容はかわいくもないことだと知っているけど、多分、周囲を通り過ぎる赤の他人にはそう見えているだろう。
 女子高生が2人、じゃれあっているような。
 会話が聞こえなければ三佳だってそう思う。
 三佳の目にさえ阿達史緒の姿がそんな風に見えてしまうとは、三高祥子に何やら敬意さえ感じてしまった。
 残念なことに、司にはその光景は見ることができない。
「篤志の言う通り、史緒は簡単には引かないだろうね」
 と、長期戦を危惧した物言いをした。
 ここで祥子が断わっても、史緒は簡単に諦める性格ではないことは三佳もよく知ってる。そう、その性格を知っていても、今回の三高祥子を追う史緒の執念には呆れた。三佳は当初、まったく別の意図が史緒にはあると思っていたから。
「私はてっきり───」
 三佳は思考がうまく言葉として並ばないので、そこで一旦切った。素早く頭のなかでパズルを並べ替え、自分の意見と齟齬が無いよう検証して、言い直した。
「単に史緒は、桐生院からまた前回みたいな仕事が来たときに動かせる人材が欲しいだけなのかと思ってた」
 史緒は否定するだろうが、それはかなり鋭い発言だ。
 この間の風俗営業法に違反している店へのおとり捜査、あれは史緒にとっては屈辱だっただろうから。
 司はあははと声をたてて笑ってから、
「それもあるよ。きっと」
 と、言い切った。

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