キ/GM/21-30/22
≪4/7≫
───その出来事に唯一行動の見られなかった史緒だが、平然としていたわけではない。
史緒はコーヒーカップを口につけたとき、その叫び声を聞いた。耳にした。
ひっかかるものを感じた。コーヒーを飲みこむことを忘れ、無意識のうちに、頭の中で検索が始まる。
しぃちゃん。
その単語は、確かに、聞いたことがある。
「…ゴホッ」
喉が鳴った音に、皆が振り返った。史緒はそれを抑えようとしたけど遅かった。
コーヒーが気管に流れ込み、史緒は激しくむせた。
「史緒さんっ? 大丈夫っ?」
蘭が素早く近寄り、背中を擦ってくれた。史緒はハンカチを口に当てて、咳を止めようとするがうまくいかない。胸が焼ける苦しさに滲む涙を我慢できなかった。
「どうしたの突然」
これは祥子の声。心配しているわけではなく、驚いているのだ。
しかし驚いているのはこっちだ。
史緒はこの状況にどう対応するかに頭を回さなければいけないのに、それに集中することができなかった。どうして。
どうしてあの人がここに?
咳はまだ収まらなかった。蘭が何か声をかけてくれているけど、それも聞こえない。
「───うっそ、本当にしぃちゃんだぁ」
すぐそばで、あの人の声が聞こえた。みんなが戸惑っているのが分かる。
(───っ)
史緒は咳を、飲み込んだ。ハンカチで口元を拭いて、顔を上げる。
忘れかけていた懐かしい顔が、人懐っこい表情で笑っていた。
「久しぶりだねぇ。元気でやってるー?」
「…真奈美さん」
真奈美は史緒が自分の名前を憶えていることに驚いたようだった。
「うそっ、史緒の知り合い?」
「ていうか、しぃちゃんってなに…?」
祥子と健太郎はそれぞれ思っていることを正直に口にした。それに応えて真奈美はにっこり笑う。
「しぃちゃんは、史緒の愛称よ」
「真奈美さん」
史緒は強く、その名を呼ぶ。あまり余計なことは言って欲しくないのだが。
「やん、まなちゃんって呼んでって言ってるじゃなーい」
「私も、その呼び方やめてくださいって何度も言ってるじゃないですか」
「なによー、かわいいのに」
「…帰って来てたんですね」
「ついさっきね。またすぐ戻るわ。…それよりっ! やだー、やっぱり敬語なのね。なんか変なカンジ、英語で喋ってるときとニュアンス違うー」
ひとり興奮してはしゃいでいる真奈美に視線が集まった。そのことにようやく気づき、あら、と真奈美は居住まいを直す。
史緒も篤志たちから同じような視線を送られ、一瞬迷ったが、やはりこの状況でしなければならないことはひとつだ。
こほん、と空咳をひとつ。史緒はまず真奈美に向かって言った。
「真奈美さん。彼らは私の仕事仲間なんです」
「えぇっ!?」
真奈美は大袈裟に顔をゆがませて、体全体で驚いたことを表現した。でも史緒はそれを無視して、次に真奈美を示して言う。
「こちらは大塚真奈美さん。私の昔の…知り合い」
語尾が小さくあいまいな言い方だったので、真奈美は強引に史緒の紹介に付け足しを加えた。
「はじめまして。史緒とは留学してたときの同郷仲間なの」
と言うと、一同の間にざわめきが伝わった。
「史緒って留学なんかしてたのっ?」
祥子が驚きの声を…何故か史緒ではなく篤志に向けて言った。史緒本人に聞いてもまともな答えは返ってこないと踏んだのかもしれない。それはある意味正しい。
「あ、ああ。3年くらい前だな」
篤志まで真奈美の登場に驚いている動揺が見てとれた。史緒はすかさず口をはさんだ。
「単なる語学留学よ、それも1年間だけ」
「14歳…だったっけ? かわいげのない子供だったのよー」
真奈美の台詞。史緒はハラハラしながら聞いていた。昔の自分のことを語られるのはあまり嬉しくない。
そのとき、真奈美の発言を妨げる助け船があった。篤志だ。
「史緒、時間」
と、短く控えめに言う。あっ、と史緒は腕時計に視線を落とした。この後依頼人と会う約束があった。
「すみません真奈美さん。私は仕事があるので失礼します」
「あ、そうなの」
真奈美はあっさりとそれを了解した。
「じゃあ、名刺ちょうだい。どうせあんたからは、連絡なんてくれないだろうから」
史緒は自分の名刺を真奈美に渡した。簡単に渡したのには理由がある。連絡先を教えたからと言って真奈美が頻繁に連絡をするような人物ではないと知っているからだ。そうでなければ仕事関連以外に名刺をばらまくことはしない。真奈美は史緒の名刺を一瞥して軽く口笛を吹いた。コメントはなかった。
「じゃあ、篤志。あとよろしく」
「ああ」
史緒はハッと気付いた。自分が去ることの危険性を。
この後この場所に残る真奈美がどんなネタを暴露するかなんて想像もつかない。真奈美のほうを見ると、彼女はニヤニヤとあまり良くない笑いをしている。
史緒は真奈美に近付くと、小声で念を押した。
「くれぐれも余計なこと言わないでくださいね」
真奈美は面白そうに目を細めて、
「はいはい」
と笑い、去って行く史緒に手を振った。(私が大人しく黙ってるわけないでしょー)と内心で思いながら。
*
≪4/7≫
キ/GM/21-30/22