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 吉川に少し時間をもらって、真奈美はこちらのテーブルにおじゃましていた。さきほどまで史緒が座っていたところに遠慮無く陣取らせてもらう。真奈美は一同、6人をぐるりと見渡してから驚嘆の声で言った。
「まさか、あの子が誰かと一緒に仕事するなんて思わなかったわ。だって、絶対、自分の仕事は一から十まで自分でこなすタイプよ。リンゲルマン効果を重んじるっていうより、単に他人に頼ることができないの」
「リンゲル…効果? ってなに?」
 すかさず健太郎が尋ねる。会話のなかで解らないものを放っておけないタチなのだ。
 真奈美はわざとすぐには答えず、他の誰かからの説明を待った。視線を交わすなかで、どうやら篤志と三佳が知っているようだということがわかった。三佳は説明するのも面倒くさそうだったので、篤志が発言する。
「作業をひとりで行うより集団で行う場合のほうが、ひとりあたりの作業量が低下する現象のこと。社会的手抜き≠ニも言う」
 職を分け与える。それで能率が低下しようと、そのような手抜きがなければ社会は成り立たないということだ。
「あ、私的にはね、社会に必要な非効率的手法≠セと思ってる。でもね、必要だとわかっていても、あの子はひとりで作業するタイプだと思ってた。だから驚いたの」
「しぃちゃんて…」
 むぅ、と眉をしかめる蘭の呟きに、
「あぁ、それは。単に私が〜ちゃん≠チていう呼称にこだわりがあっただけ」
 真奈美は笑って答えた。
「別に言語学が専門ってわけでもないんだけどね。日本語って、動詞が主語や目的語の後にくるオブジェクト指向でしょう? それに表音文字と表意文字を組み合わせるシステムとか、世界的に見てもすごく優れた言語だと思うの。表音文字だけとか表意文字だけっていう言語と比較したら、その表現力の差は歴然だよね。おしむらくは、発音が単純だから同音異義語が多すぎることだけど。その日本語で特に特異だなぁって思うのがちゃん=B敬称じゃないけど、すべての年齢層に付けられて、性別関係なくて、親しみを込めた冠詞じゃない? しぃちゃんは嫌がったけど、数少ない同郷仲間だったし、そう呼んでいたわけ」
 A.CO.の6人のなかで何人がこの説明を追えていただろうか。哲学、とまでは呼ばないだろうが、どうやら独特な考え方をする人間らしい。確実に、そして共通に伝わったことといえば、大塚真奈美が変わり者だということだけだった。
 真奈美は史緒のことを口にした。
「さっき言ってた語学留学っていうのは嘘よ。果てしなく無口だったから、私も最初は言葉が分からないのかなーって思ってたんだけど、あの子、私たちの陰口、全部理解してたもの」
 クスクスと思い出し笑いをする。
「え? じゃあ何の留学だったの?」
 と、祥子。その疑問に答えたのは司だった。
「経済学…だったよね? 篤志」
「表向きの理由は」
 篤志もはっきりしない答え方をした。
「表向き? なにそれ」
 祥子が訝る。
「親に金出させるための理由。俺も実際、史緒がむこうで何してたかなんて知らないんだ」
「僕も篤志も、その頃はお互い仲が良かったわけじゃないしね」
 今の関係を仲が良いと表現するかは疑問だが、と三佳はつっこもうとしたけど話の腰を折ることになるのでやめた。
 真奈美は人差し指をぴんと立てて、それだっとでも言うように口を開いた。
「そうそう、確かに経済学部に在籍してたみたい。うちには聴講生としてたまに顔を見せてたくらいだし。テストは受けてたな。成績は散々だったけど」
「え、それは意外。史緒って意地でもいい点取りそうなのに」
 祥子の発言に真奈美は大きく頷く。
「あは、そういう性格よね。───でも史緒はだめだった。だって感情が無いんだもの」
 あっけらかんと笑いながら真奈美は言ったが、この台詞に一同はしんとした。
 感情がないんだもの。
「どういう意味?」
 誰かの呟きに真奈美は二の腕を揉んだ。さて、どう言ったものか。
「───これは悪口だけど、あの子、どこか欠落してると思わない? 少なくとも留学中のしぃちゃんに対して私はそう思ってた」
 と、息をつく。
 心理学ほど、無意味な学問はない、と真奈美は思っている。それでも無駄ではないからこの分野に足を着けているのだが。
 心理学っていうのは一言で言うと精神が肉体に与える影響を考える♀w問だ。しかしそれも統計学に偏って、ときには笑っちゃうほど理数的。一般に言うところの人間的≠ネ、人の心の奥深く、知らなくていいことを追求する。
 人の感情にいちいち理由なんか無くてもいいのに。
 でも、見えないものを探ろうとするのが、人間ってもんだから。真奈美はそう思っている。
「美しいものを見たときに泣きたくなる、胸が痛くなる気持ちって解かるでしょう? 朝焼けや夕暮れ、満天の星空を見たときとか。どうして胸が痛くなるのか、それは一言で言えば感動してるからなんだけど、感動っていうのは興奮、感情が揺さぶられるからであって、その揺さぶりが痛みとして捉えられているからなんだよね。他にも、別れが何故悲しいのか、譲れないものを主張するときの高潮、それと同居する不安。───そういった感情を、しぃちゃんは知らなかったの」
 全員が真奈美に注目していた。
「当時14歳、そりゃ、まだ子供だったけど、明らかに異常だったわ。…私はしぃちゃんがどんな風に過ごしてきたかなんて想像もつかないけど、知らないのか、それとも忘れてしまったのか、…何があったのか。当時の私にはそんな異様さばかり目についてた。
 ある教授がこう教えたの。『心理学とは、人の心の隙間に優しく入り込むようなものだ』って。はっきり言って私は笑っちゃったけどね。しぃちゃんがその先生のカウンセリングを受けたときがあったの。そしたらよ? あの子何て言ったと思う?」
 ずずいと体を乗り出させ真奈美は一同を見渡した。
 あれは忘れもしない。真奈美は当時、教授の背後から阿達史緒を見ていたのだから。
『心理学とは、人の心の隙間に優しく入り込むようなものです』
 そう言った教授の背を見て、真奈美は鼻で笑った。誰にも気づかれなかった。
 そしてその言葉を向けられた史緒本人はこう答えた。真顔だった。
『では、このカウンセリングは無意味です』
『私は、隙間があるような広い心を、持っていないので』
「───子供の理論よ。でもだからこそ、子供が真顔でそんな台詞を吐くのに寒気がした。…この事は学科の語り種になってるわ」
 あの子が笑っているところなんて見たことなかった。
 何かを必死で抱えているように見えた。
 自ら心を狭くしてしまうような、どんな経験をしてきたのか。
「ね。史緒、イイ顔で笑うようになったと思わない? 私、最初見たとき分からなかったもの。あなたたちのおかげかな」
 その真奈美の台詞にA.Co.の6人は顔を見合わせた。それぞれが別の反応を見せる表情を表す。
 それを見て真奈美はおもしろそうに笑っていた。

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