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 2階へと続く階段を昇る。ここへは一年通っていたが、入ったことのない部屋もいくつかある。
 A.CO.の建物は1階が駐車スペースと物置で、2階が事務所になっている。3階はほとんど使われてないらしい。4階は史緒と三佳の居住空間、5階は三佳が使ってるらしい。屋上もある。
 たまに、着替えや物置として3階の部屋を使わせてもらっていたが、4階より上には、祥子はほとんど足を踏み入れたことがなかった。
 途中、2階の事務所へ寄ると、ドアに鍵がかかっていた。確かに、史緒は出かけているらしい。それに三佳も。普段ならこの時間は2人のうちどちらかがいるはずなのに。
 アポ無しの依頼人が来ない時間じゃない。不在時の張り紙もないし、何かあったんだろうか…。
 と、そこまで考えてから祥子は首を左右に振った。(私には関係ないでしょっ)
 人間、すぐには生活習慣を変えられないのだと実感する。
 時間は9時を少し回ったところ。どちらにしろ、そろそろ篤志か司がやってくる。早いとこ、用事を済ませ、さっさと退散することにしよう。祥子は上階へと向かった。
 4階のみ、階段とフロアを隔てる扉がある。他の階は階段踊り場から通路が伸びていて各部屋への扉があるのに対し、4階だけは踊り場の壁にすぐに扉がつけられているのだ。ここを居住空間にする為に後から扉がつけられたのか、それとも前の持ち主が都合上取り付けたのかは知らない。ただ、祥子はこの扉に足を踏み入れたことはなかった。
(三佳は確か、4階に置いておくって言ってた)
 しかし、何故3階にあった荷物をわざわざ4階にまとめておくのか。今更ながら疑問に思ったが、三佳なりの都合があったのかもしれない。
 祥子はそっと、ノブを回し、扉を引いた。
「……」
 そこには他のフロアと同じように、階段と平行になる通路(廊下?)があった。間取りも大体同じようだ。しかし一番手前の部屋は、通路側の壁が無く、見たところその空間はリビングの役割を担っているように見える。テーブルやテレビがある。テーブルの上には新聞が置かれていた。背を向けているソファがひとつ。誰の趣味かは知らないがソファの色は黄色だった。木造構造ではないせいもあるだろうが全体的に白が基調で、ソファ以外は地味なカラー。広くはないが、物が少ないのでそれを感じさせない。奥にはキッチンがある。食器棚や冷蔵庫が見えた。通路の奥には、いくつかのドア。史緒たちの私室なのかもしれない。
 祥子は少しの時間、その空間を眺めてしまった。阿達史緒と島田三佳、彼女らが同居し、ここで生活をしていることを改めて実感したからだ。どんな様子で、どんな会話をするのかとか、想像しようとしたけどうまくいかない。大体、史緒の私生活なんて思い浮かべることさえできなかった。
 寝て、起きて、ご飯を食べる。そんな一番基本的な日常のことさえ想見できなくて…。
(そうだっ。荷物、荷物…)
 祥子は我に返って、ドアの中へ、足を踏み込んだ。
 当然、いつもはこのドアの鍵は掛かっているはずだ。今日は三佳が開けておいてくれたのだろう。
 リビングへ入った祥子は意味も無いのに足を忍ばせた。ゆっくり、歩を進める。
 難なく荷物は見つかった。リビングのソファの横、床の上に見覚えのあるボストンバッグが置かれていた。英国旗と星条旗が混ざった節操のない柄。蘭と買い物へ出かけた時に祥子が買ったものだった。
 とりあえず荷物をまとめてくれた三佳に感謝。
 ふと、前触れもなく、奥のキッチンに覗く冷蔵が目に入った。そこにはゴミ捨て日と分別方法の行政広告紙が貼ってあった。
(……)
 その非常に生活感溢れる光景に、思わず祥子は笑いそうになってしまった。あぁ、普通に生活してるんだなぁと思ってしまった。瞬間。
「───っ!」
 祥子は飛び上がった。
 誰もいないはずの部屋。
 すぐそこの、リビングの黄色いソファ、何か動いてる。気配がした。
(なに…?)
 不安感を覚える。心霊現象を信じているわけではないが、それを体験したらきっとこんな感覚なのだろう。
 一歩だけ。恐る恐る足を前に出す。
 祥子はソファの上の気配の正体を理解した。
 叫びそうになるのを抑えた。抑えなければならなかった。何故なら。
 阿達史緒が寝ていたのだ。
 肘掛けを枕に、白い毛布にくるまって。
 着替えてもいないようで普段着のまま、微かな寝息をたてていた。
 思わず呼吸を止めてしまっていた祥子は、できるだけ音をたてないよう、ゆっくりと息をした。そして心の中で唸った。
(三佳〜っ)
 史緒はいないって言ったくせに。
 予定が変わった? 三佳が出かけた後、朝早くに帰ってきたとか? どうしてこの時間に事務所にいないの? 何で寝てるの?
 祥子は混乱した。
 それにしても、もう朝の9時だ。この時間に寝ているなんて、一体史緒は何時間眠るつもりなのだろう。
 いや、何時に眠りについたのだろうか。
(っていうか、こんなところで寝るな)
 心臓がバスドラムのように体を叩いている。もう見ることも無いと別れを告げて数日後に、こうしてお目にかかってしまうとは、何ともバツが悪い。
 祥子はソファで寝ている史緒の顔を覗き込んだ。
 やはり憎たらしく思う。数日前と同じ怒りが込み上げてくる。
 でも、別のことを思う。
(…1年一緒にいたけど、寝顔なんて初めて見た)
 辞める宣言をしたのがもう何ヶ月も前のことのようだ。つい数日前なのに。
 史緒は無防備な顔で、寝息を立てている。毛布ひとつにくるまり、横向きで丸くなっている。息苦しいからか、襟が開いていた。あまり大きくないこのソファに、数時間寝ているなら寝相は良いほうなのだろう。…行儀は悪いが。
 忘れているわけではないが、ここで寝ている人物は、日本有数大手企業の社長令嬢だ。一体、どんな育ち方をしたんだろう。明らかに自分と違うのは判るが、標準の社長令嬢とも違うのではないだろうか。
 それ以前に、何故、社長令嬢がこんな所にいるの? A.CO.のオーナーが桐生院という女性だということは知ってる。でも、それは史緒の実家とは無関係らしい。
 史緒は多くを語らない。祥子が知らないことは、確かに沢山ある。
〈あの子、イイ顔で笑うようになったと思わない? あなたたちのおかげかな〉
〈史緒さんは気に入った人間しか、傍に置きません〉
〈じゃあ、いつからだよ。おまえが変わったのは〉
 過去、耳にしたいくつかの言葉を思い出す。
(…なによ)
 今までなかった逡巡が、胸に染みるのがわかった。
 そして史緒を見る。ソファの背に手をかけて、覗き込んだ。

 ごんっ。
 頭を横殴りする衝撃があった。
 容赦無く、鈍く、頭を打たれたような感覚。
(え───…)
 現実に、物理的に外的な攻撃があったわけじゃない。体の中、頭の芯が痛みを感じたのだ。
 次に祥子は血の気が一気に退いていくのを感じた。貧血になって倒れるかと思った。
 自分が見たものが何なのか、すぐに判らなかった。
 すぐに判らなかったから、それに惹きつけられた。
 ソファの上、丸まって眠る史緒。
 見たことのない、無防備な寝顔。
 長い黒髪が肩を流れる。その隙間から覗く、白いうなじ。
 襟元がゆるめられていて、わずかに見える、折れそうな鎖骨。
 はじめはホクロかと思った。それにしては大きい。
 白い肌に浮き出た、黒い丸がふたつ、並んでいた
(なに…?)
 1センチメートルもない、小さな丸い痕。
 思わず目をひそめて覗き込んでしまう。
「───…ゃ」
 咄嗟に両手で口を押さえた。
 叫んでしまいそうだったから。
 祥子は体が一瞬で熱くなり、汗が噴き出るのを感じた。
 史緒の首筋にある黒い丸はケロイド状になっていた。
 火傷だ。
 黒い痕のなかに肉の筋も見える。
 頭が痛かった。
 これは異質なものを見た、畏怖だ。
 口を押さえ頬に触れる両手が、そこだけ地震が訪れたように激しく揺れた。
「……っ」
 その超局地的地震の恐怖に思考が巻き込まれて息ができなくなった。
 頭の中心からガンガンと低く鈍い音が響いてくる。
 心臓がゆっくりプレスされるみたい、そんなギリギリの恐怖。怖い。苦しい。
 だって想像してしまった。
 「誰か」がわざと、史緒のからだに傷をつけた。
 この痕は煙草だ。
 事故じゃない、こんな残りかた。意図的に、「誰か」が。
 どうして? 何があった?
 いつ頃のこと? 篤志たちは知ってるんだろうか? 蘭は?
 煙草…?
 祥子は頭のなかで、映像でそれを想像してしまった。遮るために目を閉じても無駄だった。想像は生々しく頭の中で展開される。
 まだ幼い史緒。その、細い首に近付く煙草。煙草を持つ指先───その先にある顔には顔のパーツがない。
(やめて…っ)
 想像のなかの「誰か」に訴える。
 触れた瞬間の肌が焦げる音、匂い。歪む表情、───悲鳴。
 そんなものまで想像してしまって、祥子は気分が悪くなった。何故だか寒くなった。
 「誰か」は、史緒にとってどんな関係の人なのか。
 「誰か」は、どんな気持ちで史緒を傷つけたのか。
 史緒は、どんな思いだったのか。
 傷はもう、消えることはない

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