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 新居の会社を出たとき、すでに9時を回っていた。暗く人気の無い工業団地を抜けて、和成が運転する車は大通りへと入る。助手席に座る三高祥子は、はじめのうち身を固くさせていたが、この頃には緊張がほぐれたようだった。
 この時間帯なら車通りはまだ多い。祥子の家までは(祥子の住所も、実は暗記している)1時間はかかるだろう。和成は車内のデジタル時計をちらりと一瞥した。
「最初に断っておきますが」和成は口にする。「質問の内容によっては黙秘しますよ」
 対外用の柔らかい口調で、きつく響かないように言う。
「はい」
 全部答えてもらえるとは思ってない、とでも言いたいような態度で祥子は答えた。
 和成は口元で笑う。
 阿達史緒が経営するA.Co.に、所員が6人いるのは知っている。和成はそれら全員の調査資料を持っていた。メンバーのうち3人は和成もよく知る人物。川口蘭、関谷篤志、七瀬司だ。彼らに続く古参メンバーの島田三佳にも、かなり前になるが一度会ったことがある。最近、新しく加わったという男子高校生は最近やっと資料を手にした。そして三高祥子。
 彼女が今、同じ車に乗っていることの巡り合わせに、和成は笑ったのだ。
「史緒の教育係って…、いつからですか?」
 と、遠慮がちに祥子が尋ねる。これは史緒についての質問ではなく、和成への質問なので、黙秘するかどうか考える必要はなかった。
「史緒さんが7歳の時なので…もう10年ですね。蘭さんは既に阿達家に出入りしていましたが、司さんと篤志はまだ居ませんでした」
「史緒には、具体的には何を教えてたんですか?」
「……。史緒さんが留学してたというのは聞いてますか?」
「ええ」
「それ以外で、史緒さんが学校へ通ったことは一度もありません。ですから、文字の読み書きや外国語、九九から微積、地理歴史や一般教養を私がお教えしました。…そうですね、人間関係を教えたことはありませんでしたから、そういう面で性格が悪い≠ニ評されても仕方ないところがあるんだと思います」
「…」
 でも、と和成は苦笑する。
「以前の史緒さんを知る人なら、私を誉めてくれると思いますよ。手が付けられないくらいの問題児を、あそこまで更正させたんですから」
 わざと誤解をまねくような言い方をしてみた。冗談めかした口調で言ったのでそれは祥子にも伝わり、興味を持たせたようだった。祥子は和成に顔を向けた。和成は運転中なので前を向いたまま、横目でそれを見止めた。
「あの、史緒って、どんな子供だったんですか?」
 どんな子供だったと想像しただろう。実際を見てきた和成は、実際以外の史緒の幼少時代を想像することができない。
 和成は史緒のことをべらべら喋る気はさらさら無い。しかし史緒について「性格が悪い」と言った祥子に、そう言わせるまでに史緒と打ち解けた彼女に、自分が知っている史緒を伝えたいと思った。
「さっきも言いましたが、私が初めてお会いした史緒さんは7歳でした。その時の第一印象はこうでしたよ」
「この子はどこかおかしいんじゃないか」
「…え?」
「いつも何かに怯えているような挙動で、少しの物音にも敏感に反応して、無口。1日中、部屋に篭っていて、たまに爆発したように泣いて。…月に一度、遊びに来る蘭さんにはぎこちない笑いを見せていましたが」
「───」
「典型的な自閉症ですね」
 しかし史緒のそれは生まれつきではない。
 和成が阿達家へ来る少し前に、史緒の兄である阿達亨が亡くなっていることは知ってる。(それだけだろうか?)和成は詳細を知らない。
「…そんな史緒さんをどうにかしろ、と、史緒さんの父親が私を雇ったわけです」
 ちょうど信号で止まったので、和成は祥子に微笑みかけた。祥子は膝の上で組んだ両手に目を伏せて、黙っている。もしかしたら史緒の過去がショックだったのかもしれない。さすがに今日会ったばかりの10代女性の思考は読めないので、和成は祥子の心中を追うのを諦めた。
 今日、祥子と会ったことによる一番の収穫は、史緒の身近に史緒を「嫌い」と言う人間が居ると知ったことだ。そう言いながらも近くにいる仲間を、史緒は持っている。
「あの」
 祥子の視線が動く。車は動き始め、和成は再び思考の数パーセントを運転に傾ける。
「史緒って…、小さい頃、親子仲、悪かった、とか、あります?」
「難しい質問ですね。ご存知の通り、史緒さんの父親はアダチの社長です。月一に会うか会わないかという状態でしたから、仲が良い悪いという以前の問題です。母親とも、悪くはありませんでした」
 冷静にそう答えながらも、和成は微かな警戒心を抱く。わざと話題を反らせるような、遠回しな質問。
 祥子は一体、何を訊きたいのだろう?
「じゃあ…、史緒の身近で、煙草を吸う人、いました?」
(…あぁ)
 和成は祥子の意図を理解した。
「アレを見たんですね?」
「やっぱり、知ってるんですね?」
「それは勿論。私の目の前で起きたことでしたから」
「一体誰が…」
「それは黙秘です」
「…」
「でも、今、史緒さんの周囲にはいません」
「…蘭たちも知ってるの?」
「蘭さんは多分知らないでしょう。それを気付かせる史緒さんではありません。そして司さん、篤志くんも知らないと思います。…ああ、でも、もしかしたら三佳さんはご存知かもしれませんね。史緒さんと一緒に暮らしているんですから」
 祥子にはそう答えたが、和成にはある確信がある。
 それは、蘭や司はともかく、篤志は史緒の火傷を知らないと断言できることだ。
(篤志が火傷を見たら、篤志は間違いなく自分を殴りに来るだろう)
 和成は篤志と仲が良いわけではない。どちらかと言えば、悪いほうだ。それに、史緒、蘭、司に比べれば付き合いも短い。───それでも、そう言い切れるだけの確信があった。
「あまり気にしないほうがいいですよ。現に当人は、今では全く気にしてません」
「でも隠してるわ」
「同情を買いたくないだけです」
 まるでたたみ込むように和成が返答するので、再び祥子は黙り込んでしまった。少し大人げなかったか、と和成は思う。初対面の女性に対して少々乱暴な受け答えだったかもしれない。普段は秘書という職業柄、あまり感情を表情に出さないのだが、どうやら調子が狂ってしまっている気がする。話題の内容が阿達史緒についてだからかもしれない。
「史緒は、何を目指してるんでしょうか…」
 祥子は次の質問を訊いてきた。「何を目的にA.CO.をつくって、人を集めているのか、…私、わからないんです」
「そうですね、史緒さんがそういったものを口にしたのは聞いたことがありません。でも、A.CO.設立以前、史緒さんが阿達の家を出る前。史緒さんの目的は、アダチから逃れることでした」
「どうして?」
「2年前、アダチグループの継承権を持つ方が、事故で亡くなりましてね。次候補…つまり史緒さんにお鉢が回ってきました。…長い話なので手短にまとめると、楽しくも無い継承騒動に篤志くんが巻き込まれ、それに猛烈に腹を立てた史緒さんが、篤志くんと司さんを連れて家を出た。直後、A.CO.を設立、今に至る、というわけです。
 そこで、史緒さんのアダチから逃れるという目的は達成させられたわけです。…いえ、実際はまだ解決していないので逃げ続けているわけですが、でも一段落したと言ってもいいでしょう」
「…じゃあ、今の目的は」
 祥子の台詞は質問ではなく、自身に投げかける疑問のようにも響いた。
 和成は答えない。
 三高さんの将来の目標は何ですか? 和成はそう尋ねたかったがやめた。やめた理由は、初対面の女性に説教する気になれなかったからだ。
 誰もが確固たる目的を持っているわけではない。史緒が何か、大きなものを目指していると思っているなら、それは祥子の買いかぶりだ。
 史緒が何を目的としているか。それは祥子や他の仲間達は知る必要は無い。ただ史緒がそれに対し、もがき、努力するだけのこと。
 祥子が判断すべきことは、史緒のことなどでは無く、祥子が望むものがA.CO.にあるかどうか。それだけだろうに。
「…」
 祥子からの質問も途切れたので、和成は昔の史緒について少し話をした。当たり障りの無いことばかりだったが、祥子はそれを興味深く聞いて、笑ったり驚いたりしていた。
 最後に車から降りる際、祥子は尋ねた。
「ひとつだけ」
「はい」
「史緒に火傷させた人…、史緒はその人のことを嫌いだったんですか?」
 その問いに和成は苦笑する。遠い昔を思い出して。
「…他人を憎むというのは、ああいうことを言うんでしょうね」
 小さなからだが含んでいた憎悪は、もう欠片も無い。それを消し去ってくれたのは、後に史緒が欲し、手にした仲間達だ。和成には、できなかったことだ。
 そして和成は祥子に笑顔を見せた。
「史緒さんに会いましたら宜しくお伝えください」

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