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 2年生の女子生徒二名は異様に舞い上がっていた。「三高先輩と喋っちゃったー」などと言っていたが、その浮かれ様の意味が祥子には分からない。校内において自分が有名人だったことに自覚がないからだ。
「校門のところに、花が来てます」
 それを聞いたとき、祥子の頭の中で真っ先に思い浮かんだ人物がいた。(ばかっ、そんなはずないのに)そう否定しても、咄嗟に浮んだのだからしょうがない。自分のなかのどんな材料を使っても、その人物が思い浮かぶはず無いと思うのに。
 祥子は走り出していた。
 混雑している廊下、その人波を縫って走る。急ぐあまり、昇降口では今日が最後の日だというのに、上履きを下駄箱に戻してしまった。それに気付かないまま、祥子は外へ飛び出した。
 急に視界が広がり青い空が頭上に見えた。ここを出る時に空を見るのは祥子の癖になっていた。今日が最後。もう、ここへは来ない。
 さようなら。
 何かに向かって、祥子は強く、強く心の中で呟く。
 心地良い風が吹いた。それに駆り立てられるように、祥子は再び走り出す。
 花が来てます───
 待っているのは、誰?
 独りになってしまったと思ってた。
 でも今日、花を持って現れたというあなたは、誰?
 期待はしたくない。辛いから。
 祥子は息を削りながら校庭を横切って、門が見える位置に辿り着く。そこで初めて速度を緩め、祥子は苦手科目の点数を見るような思いで覚悟を決めて、顔を上げた。
 該当する人物を探すためにしばらく視線が左右する。でもそんなに時間はかからなかった。
 大きな花束はピンク色の花だった。花の名前はこの位置からでは判らない。例え近くにいても、植物に造詣の浅い祥子が知っている花とは限らないが。
 その花束を持ち、校門に背をかけている人影があった。───真っ直ぐに視線を上げて、穏やかな表情で、行き交う生徒達を眺めている。
 周囲には帰り際の生徒たちがいて、別れを惜しむ人達の光景があちこちにあって、花束を持っている人もところかしこに見受けられる。それなのに、祥子との間にある存在をすべて無視させて、その人物は祥子の視界に飛び込んできた。
「───…っ」
 祥子は途端に息苦しくなるのを感じた。
 今の状況に置かれて、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか迷った。そんな迷いは、きっと自分が混乱しているせいだ。そして今の自分の正直な気持ちを、祥子は測ることができなかった。
 どうしてここにいるの?
 なにしに来たの?
 私に何を言う気?
 ───それは怖くもある。
 向こうからやってくるなんて、予想外だ。いや、予想外という言葉では済まないくらい、奇行というか慮外というか。
(何考えてるの…?)
 そんな風に真剣に思った一方で、門に立つ人影は、最初に祥子が思い浮かべた人物と実は同じだ。このパラドックスは解明できない。
 辞める宣言をしたときは、もう会うことは無いと思ってた。でもその数日後、祥子は彼女の傷を見てしまった。その後、新居誠志郎や一条和成に会って、彼女の過去を聞いて、彼女の背負っているものを聞いて。
(私は───…)
 門前に立つ人物は祥子に気付いて、顔を向けた。
 軽く、手を振った。
「……」
 祥子は混乱したまま、ゆっくりと歩み寄る。
 立ち止まってから、自然と彼女の首筋に目をやってしまって、祥子は慌てて視線を逸らした。彼女はいつも通り、襟足の高い服を着て、長い黒髪が肩に落ちていた。
「三高祥子って知ってる? って訊いたら、大はしゃぎで呼んできます≠セって」
 彼女───阿達史緒は、世間話をするような何気なさと気軽さで、…実際、世間話を口にした。
「後輩? 人気者なのね」
 久しぶりに聞く史緒の声は本当にいつも通りで、祥子は憎たらしささえ覚えた。自分はこんなにも、動揺しているというのに。
 すぃ、と史緒は祥子に花束を向ける。「卒業おめでとう」
 自然に、史緒は言った。
「───」
 水を打ったように、胸が静かになった。何もかも忘れて、素直に、たった今発せられた史緒の言葉を受け取ることができた。
 ピンクのチューリップの花束。…そういえば、花束を貰ったのは生まれて初めてだ。
 祥子が花束を受け取ったのを確認して史緒は手を引っ込めて、
「生きている人間に花を贈るなんて、生まれて初めてだわ」
 と、溜め息をついて言う。真顔で史緒が言うので、祥子は笑ってしまった。
「…縁起でもない台詞」
「そうかしら?」
 さらに真顔で、肩をすくめて言う。
 その後、会話が途切れた。祥子はその沈黙を気まずく感じたが、史緒のほうは学校という場所が珍しいようで、通り行く生徒達を目で追っていた。
(そういえば史緒って、学校行ったことないんだっけ…)
 一条和成が言っていたことを思い出す。史緒の視線につられて、祥子も学校の建物へ目をやった。
 校舎から吐き出されてくる生徒達の顔を、祥子はほとんど知らない。卒業生に限っても、祥子の頭の中で名前と顔が一致するのは本当にごく一部だ。この場所へ、3年間も通っていたというのに。
 いつのまにか史緒の視線が祥子に向いていた。
「戻って来て欲しいの」
 史緒はごまかさなかったし、照れ隠しもしなかった。
 本当に真剣に、真摯な表情で深い声を発した。
 祥子が何か反応を返す前に、史緒は続ける。
「蘭を利用してたのは本当。悪いとは思ってる。───でもその件については謝りたくないの」
「…ちょっと!」
 身勝手な発言に祥子は声を荒げた。しかし史緒は視線を反らさずに、続けて言った。
「その負い目を背負ったままでも、私は、今のメンバーでやっていきたいの」
 ───息を吸う。
 自分の言語理解力の無さに呆れる。
 史緒の言葉を理解するのに、本当に、本当に時間が必要だった。
 じんわりと、体中に伝わるのがわかった。
「───…っ」
 祥子は笑いそうになった口元を隠す。
 だって嬉しかった。
 初めて、伝わった、と思った。
 史緒の裏のない素直な行動がこんなにも嬉しいのは、史緒のいつもの言動があまりにもひねくれているからだ。
(そうよ、ひねくれてるのよ、あんたは)
 嬉しくて泣きそうになった。目頭が熱くなって唇が微かに震える。それなのに史緒は無表情のままで、それが悔しくて、祥子は声を抑えて、ゆっくりと息を吸った。
「やっぱり取り消してよ」
 と、力を込めて言う。
「え?」
 そこで初めて史緒は表情を崩して、祥子の意味不明の台詞について訊き返してきた。
「蘭を利用してるって言ったこと」
 祥子は照れ臭くて顔を反らしそうになったが、強引に史緒のほうへ顔を固定する。
 ついさっき、式中に思い立ったことがあった。
 史緒のほうから来てくれたからって、あやふやにしてはいけない。
 ちゃんと口に出して言わなきゃいけない。…自分の、気持ち。
 すぅ、と息を吸う。
「蘭を口実にしなくても、私は、ここにいるから」
 史緒は目を細めて微笑んだ。
「じゃあ、撤回するわ」



「ほら」
 史緒に促され顔を上げる。
「来たわ。暇人たちが」
 史緒の視線の先をたどると、通りの向こうから歩いてくる集団が見えた。
「あ…」
 見知った連中。A.CO.の面々だった。
 川口蘭、木崎健太郎、島田三佳、七瀬司、関谷篤志。
 まず蘭がこちらに気付いて、大きく両手を振った。酷い別れ方をしたままだった蘭の、元気な姿を見て祥子はほっとした。まず、蘭に謝らなきゃいけない。祥子は手を振り返した。
「行きましょう」
 史緒が先を歩く。
「あ、待って、史緒」
 咄嗟に、祥子は史緒の肩を掴んだ。祥子も歩き出す。肩を掴んだまま、追い越すとき、祥子は史緒の耳元で囁いた。
「和くんがよろしく≠チて」
 史緒の足が止まった。
「───…っ」
 ぎこちなく首が動きゆっくりと振り返る。その表情は完全に意を突かれていて、目を見開き、驚きの表情を見せていた。
 祥子はにやりと笑う。
 はっと我に返った史緒は、表情を隠すように口元を押さえた。
 とりあえず、祥子は史緒の意表を突けたことで満足だ。
「確かに伝えたからね」
 わざとらしくそう言うと、史緒を置いて走り出す。
「…っ! 祥子っ、なにやったのっ?」
 背後で史緒の叫び声が聞こえた。その声には、意識しない表情を見せてしまった悔しさが含まれていた。
 祥子はこの些細な勝利に微笑んだ。


「えっ、祥子さん戻って来てくれるんですかっ」
 泣き出しそうな声で、蘭は喜びの悲鳴をあげた。
「うん」
 少しだけ照れながら、蘭に笑いかける。
 はしゃぐ蘭の肩越しに、史緒が穏やかに笑っているのが見えた。
 それが少しだけ悔しくて、祥子は史緒を睨む。
 花束を顔に近づけるといい香りがした。植物の匂いなんて久しぶりかもしれない。
 史緒が向こうで笑っているのが、やっぱり少しだけ悔しくて、祥子は素直じゃない台詞を口にする。
「花に釣られたのよ」

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