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「今の、無し!」
 事務所の屋上、突き抜ける青空の下。三佳が司に突っかかっていた。
 コンクリートの上にビニールシートを敷き、その上で2人は向かい合い座っている。
 それからシートの上には、まず簡単な料理が乗ったいくつかの皿。三佳が作ったものと買ってきたものが半々くらいの割合で置かれている。そしてワイングラスがふたつ、でも注がれているのは玄米茶。さらに司のバイオリンと、今2人の間に置かれているのは赤茶ツートーンのチェス盤が置かれていた。
 早い話、屋上でランチをしているわけだ。初夏の乾いた風はそよ風より弱いくらいで、外で過ごすには最適の陽気である。
「司、今、わざと負けただろ」
 赤色のクイーンの駒を右手に三佳は司を睨み付けた。
 その睨みが効くはずのない司だが、強い声に圧され乾いた笑いを返す。
「そんなことしないよ」
「いいや、今のは絶対わざとだ。司相手に、ここで詰み取れるはずない」
 今までの流れを確認するように、三佳は手持ちのクイーンを盤上で空振りさせた。やっぱりおかしい。さらに、これは本日3度目の試合で、三佳は既に2敗していたのでとくにそう思う。
 不正を断言された司は、
「わざとじゃないって」
 と笑いながら弁解する。
 司は盤上の自分の駒を回収する。───トランプなどでは、自分の周回でも三佳にカードを動かしてもらうが、チェスのように手触りで駒の区別がつくようなゲームは司は自分ですることができた。
「ほんと、チェスはどちらかというと苦手なんだよ」
 そう言うと、司は茶色のポーンの駒を指で撫でた。2敗していてそんなことを言われては立つ瀬が無いが、三佳は尋ねる。
「苦手って…他のゲームと何が違う?」
「不均衡なところ」
 茶色の駒を陣地に並べ終わると、司はチェス盤の隣、その場にごろんと寝転がった。皿とグラスは少し離して置いてあるので気を遣う必要は無い。司は青空は見ることはできないけれど、その気温と湿度で快晴なのだろうと分かる。
 三佳もそれに倣い、仰向けになった。ちょうど司と頭のてっぺんを合わせる位置になる。地面は固いが三佳は大きな空を正面に見て、大きく深呼吸をした。
 気持ちの良い風が吹いて、少しだけその贅沢な状況を味わう。
「どういう意味? 不均衡なところって」
 少しの間の後、三佳はそのままの体勢で訊いた。
 う〜ん、という少し悩む声が頭上から聞こえる。
「例えばさ」
 にょき、と天に司の右腕が生えた。その指先が、空に四角を描く。
「将棋の盤面は9×9で奇数だろ」
「ああ」
「王を中心に線対称で布陣を組めるところなんかは戦争を起源とするゲームとして分かり易いと思わない? それらに比べるとチェスの8×8ってバランス悪い気がして頭の中でうまく組めないんだ。最初の型も王同士が向き合わないし」
 と司は説明した。
 技の向き不向きではなく、わりと感覚的な理由が三佳には意外だった。このような頭脳戦ゲームに対し、司の頭の中ではそういう原理やイメージを掴む為の機能も重要だということだろう。
「オセロは偶数……でもあれは2つの陣取りモノだから赴きが違うか」三佳が言った。「同じ陣取りモノなら、確か囲碁は19で奇数だな」
「オセロと囲碁って、黒が先番だよね。チェスは白だけど」
「クイーンが最強っていうのもおもしろい」
「チェス≠チてフランス語でどういう意味か知ってる?」「知らない」
「敗北=Bだってさ」「…負けるためのゲームなんだな」「そうかもね」
 そんな風に2人は寝転がったまま、しばらくチェスの話題で盛り上がった。
 結局、3回目の勝負の勝敗はあやふやになったままだった。



 今日は5月31日月曜日。三佳の11歳の誕生日である。
 史緒と篤志は事務所で仕事中だが、こちらの2人は今日は完全休業。屋上でのんびりしているというわけだった。
 三佳は自分が生まれた日を意識したことはあまりなかった。それどころか、実は去年まで知らなかったのだ。
知っていたところで使う知識では無いし(現に、使ったことはなかった)、年くらいなら自分の年齢を数える目安にはなるけれど。それを言うなら血液型のほうがよほど必要な知識だ。輸血をしなければならないような状況に陥った時に役立つ。
 去年になって、史緒に調べてもらい、三佳は初めて自分が生まれた日を知った。司はそのとき「来年は誕生会やろうか」と言って、1年先の約束の日が今日というわけだった。最初は誕生日を祝うことを理解できなかった三佳だが、今日という日が来て、おめでとうと言われるとやはり嬉しくなった。
 昨夜、同居人の阿達史緒から「プレゼント」を渡された。「篤志と連名でね。誕生日おめでとう」大きな包みを開封してみると、中身はチェス盤だった。チェスは盤も駒も白黒が普通だが、それは赤茶の市松模様でどこかクラシカルな雰囲気。
 三佳はお礼を言った後に、内心で感心した。史緒にしては気が利いている。
 三佳がチェスを対戦するような相手はいるわけだから。
 しかし篤志も連名と言っていたから、こういう事に対する史緒のセンスの評価はまだ保留にしておく。
 はたと三佳は自分がチェスのルールを知らないことに気がついた。明日───つまり今日、司と対戦する為に史緒を引き止め、夜遅くまで付き合わせて彼女を寝不足にさせた三佳だ。
「三佳?」
「…眠くなってきた。暖かくて」
 司は仰向けのまま楽器を構え、かなり適当にクラシックを1フレーズ弾いた。ゆっくりで穏やかな曲だった。
「何の曲?」
「ブラームスの子守り歌」
「あはは」
 空を向いたままの格好で素直に笑ってしまった。司は続けて、眠りを誘うような曲を小さい音で弾き始めた。三佳は180度体を回してうつ伏せになり、司のほうを見て感心したように言う。
「よくそんなに器用に指が動くな」
「まぁ、僕にとっては日本語を喋るのと同じだから」
 と、司は仰向けの演奏を続けながら答えた。
「どういう意味?」
「読み書きは僕にはちょっとできないけど、思考と同じ速さで表現できるものって言語だと思わない? 僕は言葉と同じように、音を聴いて理解して口にすることもできる。それこそ、日本語で会話するのと同じ反射でね。───僕に楽器を教えてくれた人なんか、最初に世界共通語を教えてやる≠チて言ってたし」
「確かに、楽譜はほとんど世界共通だな」
「意外とあるよね、そういうの」「エスペラント語とか?」「ははっ。少なくとも僕はそれ、理解できないよ」「じゃあ、手話」
「そういう文化的交友的なものじゃなくてもさ、例えば三佳の分野なら化学式もそうだろ? 記号は文字よりも単純だからそういう世界共通語は理系には多いね」
「数学なんか、思いっきり記号の世界だな」「そうそう」
 そして2人は今度は記号の話で盛り上がる。
 先ほどのチェスの話もそうだが、思考の方向が似ている為に興味の対象に共通点があり、他人には通じないようなフィーリングを共有しているからこそ2人の関係がある。
 似た者同士という言葉では、表現できないほどの。


*  *  *


「ちーっす」
 木崎健太郎はA.CO.の事務所のドアを開けた。
 そこには史緒と篤志がいた。健太郎は肩からバッグを下ろしながら言う。
「今、屋上さぁ」
「行くと邪魔物になるぞ」と、事務仕事をしていた篤志が笑う。
「いや、さっき覗いて来たんだけど、なにあれ。ママゴトでもしてんの?」
「今日は三佳の誕生日なのよ」と、史緒。
「へぇ、そりゃまた。でもあの2人、頭付き合わせて居眠りしてたぜ。とりあえず放って来たけど」
 健太郎の台詞に史緒は苦い顔で溜め息を吐き、篤志はそれを宥めるように苦笑した。
「今日は良い天気だし、風邪ひく前に起こしに行くさ」

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