キ/GM/31-40/31
≪2/11≫
1.病院
最後に見た、一瞬の光は忘れない。
次に目が覚めると夜だった。───何故って、明るくないからだ。
何も見えないくらい、真っ暗だった。っていうか何も見えなかった。でもこういうときは、大抵一分も経てば目が慣れて、薄暗い中によく知っている白い天井が見えてくる。…あ、そうか、夜中に目が覚めたんだ。
人の気配があった。暗い中、何やら囁き合っている。
「お母さん?」という呟きを飲み込んだのは、聞こえてくる声が家族のものではなかったから。会話の内容は、わらない。
どうして知らない人が僕の部屋にいるんだろう? おかしく思って一気に目が覚めた。不安になった。
それに変な匂いがする。なにか、匂いの元があるという風じゃなくて、壁や空気に染みついているような、そんな匂いだった。
毛布の手触りも違う。パジャマの感触も。…もしかしたら違う部屋にいるのかも。
僕はベッドの上で寝ていた。これは暗くてもわかる。
少し頭を動かすと、枕も違うことがわかった。
「七瀬司くん。気がついたかい?」
耳のすぐ近くで低い声。その突然さに、自分でも驚くほど、とてもびっくりした。
「お父さん?」ほっとした。
「違うよ、私は医者だ。ここは病院だよ」
よく聞くと全然声が違う。恥ずかしい。
「病院?」
「東京の町田というところだ。司くんの家からは少し離れてるね」
「町田…? 知らない。…なんで? 病院?」
「───頭を触ってごらん」
頭? そういえば起きてからずっと頭痛があった。じんじんと鳴って、頭が締め付けられている感覚。
そっと手を持ち上げて額に触ると、予想外、何か布のようなものに触れた。
「あまり強く触らないで。包帯が巻いてある。…司くんは、…目を怪我したんだ、覚えてる?」
覚えてない、という返答がすぐに思い浮かんだ。質問の意味がわからないまま思い浮かんだ。無責任な回答になる。今、この頭は何も考えられてない。それだけは分かった。
僕は全く見当違いな呟きを漏らした。
「…包帯?」
医師と名乗るその男は、その後、要領を得ない不透明な説明を言葉に詰まりながら僕に聞かせた。
後から思うとそれはかなり不十分な内容だったけど、僕に説明する役を拝命させられた医師には少しだけ同情する。何も知らない子供に、事実を、どの程度、どの言葉で伝えるべきか、深く悩んだだろうから。
僕は両親の働く職場に遊びに行っていたこと(これは何となく思い出せた)。
そこで予想外の事故があり(予想内の事故なんてあってたまるか)、僕は頭部に怪我を負ったこと。
その後、病院へ運ばれたこと。手術されたこと。
事故後、1週間経っているということ。
「包帯を巻いている頭の上半分…主に目の周りには、酷い傷がある。幾度かの手術が必要になるね、少しずつ治していこう。
それから───…」
医師の、喉が鳴る音が聞こえた気がした。
とても言い難そうに、医師は理解し難いことを言った。
遠く、子供の笑い声が高く響いた。
「え?」
意味が分からなかったので訊き返すと、長い溜息が聞こえた。空気が重くなる。
君の目は壊れちゃって、視力を戻すのは難しいんだ。
───と、小さく、医師は事実を声にした。
さっき、一瞬だけ、とても耳が澄んだような気がしたのに、今度は何も聞こえなくなった。
包帯で締め付けられている頭が、自分の鼓動を聴かせた。一定周期の血流を意識することができる。
そう、血の流れを感じたのは頸部ではなく頭部だった。
それはとても熱く、そして煩かった。まるで、寝る前のひととき、暗闇の中の時計の音のように。
視力が戻らないということが、実際問題どういうことなのか想像できなかった。
そういえば視力ってなんだっけ? わからないことだらけ。
だからそのことには言及せず、僕は一番気になっていることを訊いた。
「お父さんとお母さんは…?」
少しの間があった。それはとても長く感じた。
「…ごめん、ここにはいない」
「どうしてっ!?」
「落ち着いて…、ちょっと用事があって、こちらには来られないみたいなんだ。事故の片付けとか…、かな。でもきっと、とても心配してる。心細いだろうけど、気を落とさないで。用事が済んだらここへやってくる、きっと駆け込んでくるよ」
最初は暗闇との戦い。
朝も昼も夜も、いつも、どこでも、ほんの少しの明かりさえ見えない。
音だけの世界。
朝が来たことさえ、光ではなく鳥の羽ばたきで気付く。もしくは「おはよう司くん」他人に起こされて気づく。暗いところで「おはよう」だなんて、と笑った。しかしそれは一瞬の間だった。
朝が明るくないなんて。それに気付いたとき、やっと直面している現実が見えた気がして胸を潰されるような大きなショックがあった。
見えないとわかっているはずなのに、毎朝、そのショックを味わった。本当に毎朝だ。
包帯を取り替えるとき、久しぶりに目に風が触れた。そのときも、やはり何も見えなかった。失望による衝撃があり、この胸に浅はかな希望を持っていたことを知る。そんな自分に嫌気がさした。
近付く衣擦れに怯えた。障害物を恐れ、自然と前かがみになる歩き方。不愉快な薬の臭い。
雑踏のざわめきが気になってしょうがない。普通なら雑音と同じ、意味なんて考えない声のはずなのに。言葉が聞き取れない声に無意識に耳を澄ましてしまう。
無限に、どこまでも耳を澄ます。両の耳が、頭を貫通しそうなくらい、耳を澄ました。
すると、頭の芯に疲労を感じて、1日寝込んでしまった。
きっと僕の耳が頭の中で繋がってしまったせいだ。
「この部屋から時計無くして。───すごく、うるさい」診察中の医者の腕時計にさえ、苛立ちを感じた。
病室から一歩も外へ出ない日が続いた。
やってくるのは医者と看護婦だけ。やっぱり両親は来ない。
どうして来てくれないんだろう。
ああもしかしたら、僕と同じようにお父さんたちも怪我をしたのかもしれない。別の場所で同じように、入院しているのかもしれない。
そう思いついたら少しだけ、この爆発しそうな不満を落ち着かせることができた。
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