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 光。
 明かりがないだけじゃない。音だけというのがどこまでも不安を掻き立てる。
 不安。
 言葉が信じられない。言葉だけじゃ信じられない。見たい。
 疑心暗鬼になっていることにさえ気付かない。
 乱暴になる言動。八つ当たり。
 この、触れない目隠しを取ろうとして何度も空振りした。そのせいで眉間や目蓋に引っ掻き傷ができた。
 頭が痛いのは気のせいじゃない。
 耳だけで取り入れる情報量、取り入れる為の集中力による疲労がその原因だ。と医者は言う。
 けどそんな理屈は何にもならない。
 どうして、見せてもらえないんだろう。この暗闇を見続けなければならないんだろう。
 たまに、泣きたくなる感情を自覚する。
 でも泣くことはできなかった。僕は男だから。
 部屋の中に誰かいるかもしれないから。


 距離が分らないんだ、ということに気付いた。
 突然近くで人の声がして飛び上がることが何度もあった。前後左右、上下からも。近くに人がいるということに気付かない。注意深く耳を傾けるようにすると、また頭痛がして、やはり寝込むことがあった。
 廊下に響く足音に身構えてしまう。何事もなく部屋の前を通りすぎていくと心からほっとした。
 医者と話しているとき、周囲への注意が薄くなる。そのことに気を取られると今度は会話の内容が頭に入らなくなった。
 どうしろというんだ。
 まぶたを開けても閉じても何も変わらないって、どういうことだろう。 目ってなんだ? 本当にここに、眼球は入っている?
 包帯をはずされたとき、指の腹でそっと、眼球を触ってみた。
 カラをむいたゆで卵に似ていた。
 手をかざしても、手が見えない。握っても見えない。振っても見えない。目の前にあるはずなのに。まぶたの中にあるのは何? きっと卵のように白いだけの、役に立たない球体が入っているに違いない。
 そもそも本当に手はそこにあるのだろうか。目の、前に。
 ───「前」ってどっちのこと?
 突然、その疑問が生まれて、また頭痛がした。
 左右は? 上は? 下は?
 天地がひっくりかえったような感覚を覚え、吐き気が込み上げる。
 どこへ足を踏み出せばいい?
 そう考えると一歩も歩けなくなった。
 本当に一歩も歩けなくなって、その日は医者に抱きかかえられて病室のベッドへと戻った。
 医者に抱きかかえられているときでさえ、この体は極度に緊張していた。…医者を信用して体を預けることができなかった。


 感情が荒んでいくのがよくわかった。
 医師や看護婦に酷い言葉を吐いて、後になって目眩がするほどの自己嫌悪に悩まされたりもした。(目が見えなくても目眩があるのだろうか? この表現の正確性は不明だ)
 僕の言葉が周囲を傷つけていることは分かっていた。でも止めることはできない。そうしなければ息ができなかった。そうしなければ、圧迫されるような胸の苦しみを和らげることができなかった。
 突発的に右手を壁に叩きつけることがよくあった。理由は前と同じで、胸の苦みが弱まるからだ。もちろん右手は痛くなるわけだが、そちらのほうがマシだった。何故、右手なのかというと、病室ではベッドの右側が壁だったし、廊下では右側の壁を伝って歩いていたから。
 繰り返される手術で頭の怪我は回復に向かっている、そう医師から教えられたが、鈍い頭痛は依然消えていない。それは精神的なものだと言われた。それならどうして精神を治してくれないのか。頭部から脳だけを取り出して湯船で洗って、不純物を取り除きたくなるような痛みだった。
 ───この頃、両親に関する噂を立ち聞きした。
「七瀬の行方は追うな、って上役に言われたけど、どういう意味? やっぱ逃げたん?」
「奥さんのほうも顔見せないって。…夫婦揃って頼りないところあったけど、まさかなぁ。子供があんななってんのに」
「口外無用の誓約書はともかく、あの夫婦を探すなって…。上は何か知ってんだろーなぁ」

 その噂を僕なりに解釈するのに3日かかった。
 その3日間は、暴言も吐かず、壁を叩かず、ひたすら考えていた。その静けさに周囲は気味悪がっていた。
 お父さんとお母さんはどこにいるのか。
 悲観的な沈重、それを打ち消す強い期待。その期待に、さらに期待していることに気づいた後の虚しさ。
 体の中で思いは浮き沈み、どちらか一方に落ち着いても、また暴れ出す。頭痛と戦い、人の気配に怯えながら。
 医者は「ご両親は用事が済んだらここに来る」と言った。その時を大人しく待てばいい。でも、2人と同じ職場の人たちは、行方を知らないと言う。どうして連絡ひとつ寄こさないのか。
 2人がここにいないことが、その答えではないか。
「…ッ」
 空気の不味さに耐えられなくて、右手を壁に叩き付けた。
 それが3日後のこと。
 全身が震え上がる程、膝を落としてしまう程苦しくて、何度も、壁を叩いた。潰れてもいい、この手を叩き壊しても構わない。痛い。
 痛かったけど、そうすることで苦しみの上昇が和らいだ。
 医者が飛んできて僕の手を掴んだ。
 医者に怒鳴られるまで、右手の関節から血が流れていることに気づかなかった。
 目が見えないとはそういうことか、と思った。

 その後も何週間か、浮き沈みの激しい日が続いた。
 近くの病室の入院患者たちは気味悪がって近寄ってこなかったし、僕も出歩くことはしなかった。医者や看護婦とだけ言葉を交わす日々。
 薬の匂いはもうしない。慣れたのだろう。
 時計の音だけを聞く時間が増えた。その間、何も考えない時間は無かったはずなのに、思考は堂々巡りをさらに繰り返し、発展しない思考を無駄に働かせていた。
 ひとつ。周囲に酷く当たることがふつと無くなった。
 諦めたから。
「七瀬…司くん?」
 人の気配。
 初めて聞く声。(といっても、そう言いきれる自信はない)
 男の声、僕より背が高い。
「誰?」
「ええと…アダチっていう会社、知ってる?」
「うちの親が働いてた」
「そう。今日はそこの阿達社長の代理で来た…」男は苦笑らしき声をもらす。「一条和成です」
 はじめまして、と付け加えた。こちらが挨拶を返さないのも構わず、すぐに言葉を繋げる。
「迎えに来たよ。君は今日から、阿達社長の家で暮らすんだ」

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