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 阿達櫻について考えるのは少し難しい。
 目に包帯巻いててよく平気で歩いてるなぁ、…あぁ、包帯外しても、目隠しされてるんだっけ
 と、言われたことがある。
 櫻は感心したように言った後、からかうように声をたてて笑った。悪びれる様子も無い、他人の失敗の揚げ足を取り純粋に面白がるような笑いだった。見えなくなってから、そういう人間に会うのは初めてだ。ああ、でも、クラスに一人はそういうやつがいたかもしれない。
 櫻は高校生で、毎朝同じ時間に家を出るので、史緒と違い、学校へ普通に通ってるようだ。櫻が玄関を出る音がすると、2階でドアが開いて史緒が降りてくる、それが毎朝のパターン。史緒はきっと櫻がいなくなるのを待っているんだろう。
 史緒は日曜は早く起きてくる。日曜だけは櫻は朝遅いから。櫻が気まぐれに早く起きてくると、前のようなことが起こった。
 櫻は煙草の匂いがするので、近づくとすぐ分かる。
 七瀬、光が怖いんだろ
 と、言われたことがある。
 そのとき、僕の心臓は一気に縮み上がった。鳥肌が立った。初めて櫻を怖いと感じた。
 ───最近、夢を見ていた。目が見えなくなる前、最後に見たフラッシュ。視界が真っ白になり、赤くなって、真っ暗になった。そんな夢を繰り返し見ていた。櫻に見透かされたのかと思ってぞっとした。
 見たいという欲求は今もある。
 だけど最後の光を思い出すたびに、背筋が温度を失くして、息ができなくなった。咄嗟に目を瞑り、手のひらで目を塞ぐ。見えないことに安心して、やっと息をすることができる。
「どうして分かったの?」と尋ね返すと、櫻はそれには答えず、僕の耳元でこう囁いた。
 体験できないものが怖い? それって独り相撲。妄想。悲惨だね。
 ちりっ、と胸に火花が散った。怒りじゃない、これは危険信号。
 櫻の言葉はいつも痛かった。僕は昔から、例えば足のバランスを崩したり自転車で転びそうになるとき、瞬間的に頭が痛くなることがあったけど、櫻の言葉はそれと同じ痛みだ。
 痛みは一瞬で退いて、少しの疲労がつづく。
 櫻が他人をからかうことを楽しんでいるかというとそうではなくて、僕に話しかけてくるのは、多分、暇つぶし。時々、足をひっかけられたり、階段の途中で突然肩を掴まれたり(びっくりして落ちそうになる)、そういう物理的な攻撃もあるけど、多分、それも暇つぶしでしかなくて。
 それにも飽きると、居るのか居ないのか分からないくらい静かになって、自室で本を読んでいたりする。
 多分、史緒も、櫻のそういう所が嫌で逃げてるんだと勝手に思った。
 史緒が徹底的に櫻を避けてるので、あの2人が会話するところを見たことはない。

 多分、これは晴眼者にも言えることだと思うけど、階段を上り下りするとき、自然に数を数える。とくに下り。この家の階段は14段あって、上るより下りるほうが僕は時間がかかる。手すりにつかまり、一段一段数えながら下りる。
 下りる途中、櫻に話しかけられることが何回かあった。階下の廊下から。自然に身構えるけど、大抵何でもない、内容のない会話。話が終わると櫻の毒に当てられなかったことにほっとする。再び下りようとするとき、ふと数を忘れていることに気づく。あと何段あるか分からない、恐る恐る、段差を確認しながら下りるはめになり、倍以上の時間がかかった。そんな些細なことだけど。
 櫻の呼びかけがわざとだと気づいたとき、背筋が寒くなった。
 軽い嫌がらせなのは分かってる。でも櫻の想像力にぞっとした。何で分かるんだろう?
 話しかけることで僕が歩けなくなること、どうして見える櫻が見抜いたんだろう?
 櫻の言動はそういう、心を見透かされているような緊張をいつも与えていた。
 昼間は気づかないうちに、感覚が櫻を探していた。
 ろくに眠れない日々が続いた。
 病院にいた頃とはまた違う様に、神経を張りつめていた。無意識のうちに感覚を尖らせていた。しばらく収まっていた頭痛が再発して、ストレスが鬱積していくのがわかった。
 無意識のうちに、感覚が櫻を探していた。当然の防衛反応。

 かたん
「───…っ」
 小さな物音にさえ敏感に反応して振り返る。(振り返っても何も見えないと分かっているのに)
 何も起こらなかった。
 廊下の先、人が立っている。何も喋らない。「誰?」威嚇するように返答を強要すると、にゃあ、と小さく猫の鳴き声がした。
「史緒?」
 返る声はない。でもそれこそが彼女である証拠だ。
 返る声はない。そしてこの場を去らず、ただ立っているだけで沈黙している史緒。
 言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに。
 けど、分かってる。史緒は言いたいことなど無いんだ。ただ同居人が視界に入って来るだけで。
 外を歩いているときに感じる、この頭の包帯に対する好奇心や同情は史緒からは感じられない。興味も関心も無いならさっさと立ち去ればいいのに。でも何故か史緒と2人だけになると、奇妙な沈黙があった。
(ああ、本当にイライラする)
 目が見えなくなったことで、僕に何か変化があったのかな。…以前は、周囲の人間にこんな風に腹を立てるなんてことなかった。
 櫻にはいつも、掴み所がない緊張をゆっくりと圧し当てられているような気分にされる。でも史緒に比べたらまだ意思疎通が可能なほうだ。史緒は本当に何も喋らないので不安を与えてくる。それは櫻の言葉と同じくらい不快なものだった。
「…っ」言わずにはいられなかった。「おまえのことも嫌いだ」
「そう」
 しっとり小さな、特に感情が入ってない声。そのまま足音がいくつか響き、それは階段を昇る音に変わる。しばらくして2階でドアが閉まった。
「…っ」
 腹の辺りから熱が込み上げて、頭がカッとした。しかしそれは一瞬のもので、すぐに熱は退いていった。舌打ちした。
 史緒は僕のことなんて興味無いんだ。
 きっと視界に入ってない。僕は目の前に立つ人間すべてに対していつも気を張りつめているのに、彼女は誰も見ていないのだ。見えるという計り知れない恩恵を知らずに、ただ時間を過ごしている。
 説教する気はない。ただ、この家でストレスを感じているのは僕だけだと気づくと、悔しさと虚しさが一緒になって、どうしようもない疲労を身に受けた。


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