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 阿達家で暮らし始めて日付を数えて30日後。(このときの僕に日付感覚は無い。後になって聞いた)
 香港へ行こう、と和成が言った。
 和成が史緒から離れるはずない。───その思いは正しくて、無駄な勘違いをしなくて済んだ。行くのは僕ひとりだ。
 目の治療のため、という名目らしい。
 そのときはホンコンという場所がどこなのか分からなかった。
 ただこの頃、目が見えないということに加え、櫻や史緒との生活に倒れるほどの疲労を感じていたので、環境が変わると聞いて正直ほっとした。
 そこが外国で、海の向こう側だと知らされたときも、阿達家にいるよりはマシだろうという気持ちのほうが大きかった。
 たらいまわしにされたのだな、と漠然と理解した。
 しかし、香港へ行く旨を櫻に伝えたとき、
「…史緒か」と、櫻はつまらなそうに、それだけ呟いた。
 意味がわからなかった。
 史緒と話す機会はなかった。


 初めて空港に来た。
 とにかくうるさい、というのが一番の印象。聞いたことがないくらいの足音の数、人の気配、喧噪。一番、大きく聞こえる話し声でさえ内容は聞き取れなかった。ただ人の「声」が360度回りから、流れ込んでくるだけだ。
 思わず耳を塞いだ。すると今度は、地下でモーターが唸っているような、低い地鳴りが聞こえた。気のせい?耳から手を離すと、それは聞こえなくなった。また、人の「声」が流れ込んできた。
 今日、ここに、香港からの迎えが来るらしい。少し早く着いてしまった為に、する事もなく、僕たちは椅子に腰掛けていた。
 隣には僕をここまで連れてきた和成さんがいる。(この人も大変だな)
 彼は阿達家の居候というが、もしかしたらその立場のせいで、阿達のおじさんに頼まれると断われないのかも。大学生だと聞いたけど史緒の教育係だし、あの兄妹の間をうまく取り計らっているし、マキさんの手伝いもする。それに、そうだ、僕を病院まで迎えに来たのもこの人だし、こうして送りに来たりもする、多忙な人だ。
 でも僕の面倒を見させるのは今日までだから、負い目を感じたりはしない。
 ここはまだ日本。
 何となく、それを確認した。これから僕は飛行機に乗って、香港へ行く。
 不思議と気持ちは落ち着いていた。…というより、何も感じてなかった。麻痺していたのかもしれない。日本を離れることにも、寂しいとか、思うことはなかった。
 ただ、僕の頭には相変わらず包帯が巻かれている。それだけが苛立ちの理由だ。
 鬱陶しかった。この包帯を外しても、決して光を見ることはできない、そう分かっていても。
 ときどき頭痛がするのはこの包帯のせいかもしれないと思うほど。
 それに周囲からの視線。僕が見えない、僕を見る他人の視線も気になる。頭に包帯を巻いている僕を、絶対、変な風に見てるに違いないんだから。
 医者は「本当は、もう外しても平気なんだけどね。ただ、外すと、もっと見られることになるよ」と、静かに言った。「どっちがいい?」と意地悪く付け足す。
 醜い傷を晒すなら包帯のほうがマシ、と答えたから、この状況に至るわけだけど。
「大丈夫、香港の医者がきれいに治してくれるよ」
 そんなものは慰めにならないのに。

「和くん!」
 突然、跳ねるように弾んだ、透き通る高い声が聞こえた。少し離れたところから。
 周囲の喧噪がピタリと止んだ気がした。それくらい、きわだった声。
 麻痺していたはずの心臓が跳ね上がった。僕は見えもしないのに、思わず、辺りを見回すように首を左右に振った。
 次に、その声はすぐ近くから聞こえた。
「こんにちはっ」
「…っ」
 びっくりするような大きな声。女の子…多分、年下だろう。
 さらに驚くことに、その声に和成さんが答えた。
「やぁ蘭ちゃん」しゃがんだようだ。「こんにちは。…まさか一人で来たの?」
「いーえ。流花ちゃんのトコの、林先生が一緒です。───こちらの方が、史緒さんが言ってた方ですか?」
(史緒が…?)
 和成さんの手が僕の肩に触れた。
「そう。七瀬司くん」
 突然、紹介されたこと、焦る。
 まさか、この子が香港からの迎え?
 息を吸う音が聞こえた。
「はじめましてっ。蓮蘭々です」
「───…!」
 思わず息をのんだ。
(すごい…)
 その声だけで、目の前の女の子が、まっすぐにこちらを見て、まっすぐに笑っていることがわかった。
 声だけでわかるくらい、その声は迷いや曖昧さが無い明確な感情を伝えてきた。見えなくなって、初めての体験。
 この子が感じている素直すぎる高揚感がそのまま風になって、それを真正面から受けたような感覚。その風を受けて僕の前髪が揺れたような錯覚さえ味わう。
 ああ、初めて会う人間だ。あたりまえの事を思った。
「あのね、あたし、史緒さんの友達です」
(史緒の…?)
 うまく言葉にならないが、このときの僕は複雑な気持ちだった。
「えへへ、和くんも友達よねっ」
「そうだね」
「ねぇ、史緒さんは?」
「ごめん、今日は来てないんだ」
「えーっ」
 不服そうな声をあげる蘭。「日本に来たのに史緒さんに会えないなんて〜」
 どうやら蘭は史緒を慕っているらしい。
 そうこうしているうちに、林という人物が現れた。20代の男性で、カタコトの日本語を喋る。蘭が言っていた通り「流花女史の助手です」とシャレのような文章を言いにくそうに口にし、和成さんと少しの間やりとりしていた。
 林さんは僕の手を取ると「さぁ、行きましょう」と促す。
「元気で」
 和成さんは最後に、そう言った。
 見えないはずなのに僕は振り返った。多分、和成さんは僕を見送っていただろう。

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