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3.蓮家
「お帰りなさい、蘭」
 その声は特別大きくはなかったけど、力強く硬質な響きかたをした。女の人の声。それが第一印象。
「ただいまっ」
 僕ら3人のうち、蘭が答える。
「林、ご苦労様」
 また、さっきの声。
「どうも」
 今度は林さんが答える。
「で、君が七瀬司くんか」
「…!」
 その声に指名されてどきっとした。答えないでいると、パンッ(多分、手叩き)と音がした。
「ほら! 挨拶!」
 途端に不機嫌な声。それに押されるように、
「え…あ、…はじめまして」
 と、しどろもどろ口にすると、
「よーし。日本の学校でも教わったでしょ? 挨拶は元気良く、しっかりとね」
 と、不機嫌だったはずの声は最初に戻った声で微笑んだ(そんな気がした)。
「はじめまして。蓮流花よ」
 例え日本語でも呼びつけにしたらはっ倒すからね、と微笑んだままの口調で付け加えた。


 香港に着いたと教えられても、全然、実感がわかなかった。蘭と林さんに騙されてるんじゃないかと思ったほどだ。
 空港に着いてすぐに車に乗せられたせいもある。車の揺れは日本と同じだし、空気も匂いも大して変わってないし、何より蘭と林さんは日本語を話す。ただ、車の運転手に、蘭はあの明るい声で、僕の知らない言葉を淀みなく投げかけていた。違和感があったのはそれだけだ。
 家に着いたと声を掛けられて、車を降りたとき、出迎えの挨拶をした流花さんも日本語を口にした。それに対する蘭と林さんも日本語で応えた。ほんとはここ、日本なんじゃないの? と、よっぽど蘭に訊きそうになったが、それで恥を掻くのもごめんだ。
「君は今日から、ここに住むのよ」
「え?」
 話し掛けてきたのは流花さんだ。意味を理解するより先に問い返してしまった。5秒かかって何となく理解すると、「どうして?」と、さらに聞き返した。
「あら、史緒から何も聞いてない? 変ね」
「…なんで史緒? 和成さんじゃなくて?」
 この違和感は3度目だ。最初は櫻、次は蘭。その2人に比べれば流花さんの発言はかなり直接的な言い回しだったように思う。何故みんな、史緒が仕切ったような言い方をするのだろう。
「カズナリ…? あぁ、史緒の面倒見てる奴、か。私は面識無いんだけど、どんな奴? 男前?」
 多分、もう少し後の僕なら、この台詞にカチンときていただろう。この時は流花さんの台詞をすぐに理解できなくて言葉を返せなかった。
「…」
 黙っていると流花は、重みをつけた口調で言う。
「もちろん、ルックスを訊いてるんじゃないからね?」
「───」
「コラ、黙らない。日本でも言うでしょう? 目は口ほどにモノを言う。目で喋れないなら、ちゃんと口で喋らなきゃ。相手が不安になるわ」
(その理屈はムチャクチャだ)「病院に行くんじゃないの?」
「医者はここに呼ぶわ」さらりと流花が言う。(は?)「…ちょっと顔、触らせてね」
 両耳を塞がれた。
 突然の触感に驚いたけど、流花さんが両手で僕の頭に、包帯の上から触れたのだとすぐに気づく。そのまま軽くひねられた。
「外側はあと一回の手術できれいになるらしいじゃない。一月後にはきれいになるわね。その後は私の出番」
「え?」
 また問い返すと、流花さんは困ったように笑って、軽く息を吐く。ふと、その手が離れる。
「もぅ、本当に何も聞いてないのねぇ」さらに声を強くして「ま、いいわ、後で説明する。ひとつだけ言っておくけど、ここでの暮らし、楽じゃないわよ。覚悟して。…蘭、家の中を案内してあげて」
「はぁい」
「家の中のこと、よく覚えておくのよ。今度、ひとりでおつかいに行かせるから」
 行きましょう! と蘭が言い、僕の手を引く。
 蘭に引きずられて、流花さんの前を通り過ぎた。
 また、訳が分からない状況に立たされたわけだ。


 この家はとにかく広かった。
 蘭の手に引かれて壁を伝いながら歩いたけど、直線距離だけでもかなりあったと思う。
 最初に長い廊下があった。足音の響き方が違う、天井が高いのかもしれない。
 何人かとすれ違う。蘭はまたも大きな声で、挨拶のような、僕の知らない言葉を喋った。それが2,3人続いたとき、訊いてみた。
「何て言ってるの?」
「あ、ごめんなさい。さっきのは、司さんの紹介は今夜します、って」
「ちょっと待って。ここって何人いる?」
「さぁ…、何人くらいでしょーか…」
「は?」
「あたし達家族の他に住んでるのは、日によって変わりますけど、20人くらいだと思います。ミスタ・ロッジスと、お医者様と、看護婦の方と、警備の方もいるし、あと林さんも」
 言葉もない。
「あの、蘭の家族って?」
「あたし、13兄妹の末っ子なんです。流花ちゃんは2番目」
「!!」
「お父さまと、お母さま達」
「……。達…?」
「7人いるの、皆、ステキな方」
「7人!?」
「あれ、えっと、何か変でした?」
「…」
 その後も蘭が案内したのは、中庭、図書室、家族の部屋、食堂など、およそ一般家庭ではあり得ないくらいの距離を移動をした。まるで学校のようだ。
「この先は父さまのお部屋。今はお仕事がたくさんみたい、司さんには後で挨拶に行くって仰っていたわ。普段は一番手前の部屋にいらっしゃるのだけど、それより奥はあたし達は入っちゃいけないの」
「───」
 蘭たちの父親。…どんな人だろう。
「そしてここが司さんの部屋です」
 また少し歩いた場所にある部屋のドアを、蘭が開けたようだ。
「おかえりなさい」
 林さんが待っていた。
「じゃあ、蘭さん。司くんと少し話をさせてください」
「は〜い。じゃあ、また、夕食に呼びに来ます」
 司さんまたね、と言い残して、蘭は部屋から出て行った。
 林さんは僕を近くの椅子に座らせると、自分も正面の椅子に座った。
「改めてよろしく。司がここにいる間、僕が君の面倒を見る」
「…あ、よろしくお願いします」
「まずは流花女史からの伝言。この家の中で日本語が使えるのは、蓮大人と流花女史と蘭さんだけだ。あと、ワタシね。えーと…、他の人間とコミュニケーションを取りたかったらここの言葉を覚えること、だって」
「えっ!?」
 大袈裟に驚くと(心中は決して大袈裟ではないのだが)林さんは声を立てて笑う。
「広東語と英語ができれば会話には困らないよ。街中にでるようだったら、北京語もできるとパーフェクトだけどね。大丈夫、どれかひとつ覚えれば文法は似てるから」
 その他に、林さんは僕に杖を渡した。
 取っ手は無く、ただの棒。細い。色は白らしい。
「この杖を持つ意味は3つある。ひとつは足下の段差やぬかるみを知るアンテナの役目、ふたつ目は障害物から身体を守るバンパーの役目、みっつ目は周囲に注意をうながす目印としての役目」
 体の重心を支えるためのものじゃない、と林さんは強調した。
 どうもよくわからない。
 どうして僕は蓮家に来させられたんだろう。
「…僕はここで何をすればいいの?」
「できるだけみんなと同じように暮らせるようにする訓練をするんだ」
 つまり、病院でやると思っていたリハビリを、この家でするのだと、僕は理解した。
 何となくだけど目的が見えて、少しだけ安心した。

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