キ/GM/31-40/31
≪8/11≫
はじめの数日は、ほとんど蘭と一緒だった。
蓮家での生活習慣を教わったり、出会う人達に紹介してもらったり、それなりに忙しく過ごした。林さんも時々一緒で、僕の面倒を見てくれていた。
蓮蘭々は僕より3歳年下。今年8歳になるらしい。
今のところ僕の生活の中で、一番、話がし易い存在だ。蘭の活発な声や明るい性格に接すると気持ちが軽くなり、一緒にいると漠然とした不安を忘れることができた。分からないことは、蘭になら遠慮無く訊けたし、蘭も僕のことを常に気に掛けてくれていた。
蓮家の末っ子である蘭はその気性から、やっぱり周囲から好かれているように見える。僕は蓮家の兄姉のうち、まだ半分くらいしか会ってないけど(なんせ13人もいる。名前と順番を覚えるだけで一苦労)、さらに蘭と流花さん以外の人達の言葉は僕には分からないのだけど、それが伝わってきた。同じ兄妹でもここまで違うものか、と阿達家の2人を思い浮かべもしたけど、その比較は悪口になるだろうから、蘭には言わないでおく。
その代わり、僕は思いだしたことを言った。
「そういえば櫻が…」
「はい?」
「伝言を頼まれたんだけど」
「櫻さん? あたしに?」
「多分」
香港へ行くことを櫻に伝えたとき、櫻はこんなことを言った。
蓮家の末娘に伝えろ。
(って言ったら、蘭のことだよな…)
「なんですか?」
「『探しものは見つかったか?』」
櫻の台詞をそのまま言ってみると、蘭は目を丸くして、少し間があってから、くすくすと笑い出した。そして、
「まだです」
と、答えた。実は蘭の返答に対する、櫻のコメントも用意されていた。
「うん、多分、そう答えるだろうとも言ってた、な」
海を越えての伝言に使われるのは別に構わないけど、櫻と蘭の間でこんな密談があるなんて意外だった。
「えへへ。これは秘密なんですけど、櫻さんとあたし、同じ探しものをしてるんです。見つかった? っていうのは、もう挨拶代わり。…櫻さんがそう言ってたということは、まだ櫻さんも見つけてないっていうことですよね。残念なような安心なような、変な気分です」
あ、秘密ですよ。と、蘭は念を押した。
こっちこそ変な気分だ。
確かに蘭は誰とでも分け隔て無く接し、話をするけど、それはあの櫻でも例外ではないということだろうか。
「蘭って、櫻のこと平気なの?」
「平気って?」
と、問い返されてしまい、言い淀む。
「えっと…、僕はあまり好きじゃない」
「あたしも、櫻さんのことちょっと苦手です」と、苦笑して「だって櫻さん、史緒さんのこといじめるんですもの」
「蘭は、史緒のことは好きなんだ?」
「大好きです。司さんは?」
「───…」
このときは深く考えず、僕は自分の発言の責任を以て、史緒本人に向けた意味をそのまま繰り返した。
「嫌い」
「まず、これだけは覚えなさい」
最初の「授業」で、一番に、流花はこう言った。
「今から教える現実を受け入れなさい。理解するのは後で構わないわ。でもいつも自分に言い聞かせなさい。これは真実で、大前提なの」ひとつひとつ区切りながら。「君は障害者になったの」
「………」
「そして大概の社会は障害者に優しくないわ」
ここには自分ひとりしかいないはずなのに、流花はまるで、教師が教室全体に響かせるような、そんな声を出す。
「周囲に頼らなければ生きていけないの。わかる?」
「…っ」
ぎょっとした。流花の声がすぐ近くから聞こえたからだ。
「よく聞いて? 決して優しくない世界に頼らなければ生きていけないの。それはとても厳しいものだわ。もし、誰かが司を騙そうと嘘をついたら、君は見抜けるかしら。馬鹿げた優しさに揺れずにいられるかしら。対人じゃなくてもそうね、足下に大きな石があったら転ばずにいられる? 知らない町に置き去りにされて、家に帰れるかしら? ───忘れないで。君が生きていく世界は本当に、優しくないから」
一気に言葉をぶつけてくる流花、そのうちの半分も意味が分からなかったけれど、最後の言葉だけは自分を脅すための大袈裟なものだろうと思った。
「で、でも…、今までは普通に暮らしてきたし…」
「そうね」耳元で聞こえる優しい声。「友達と遊んだりした? 親切な人たちもいたでしょう」
「うん」
「同じものを見て、同じように感じて、そうやって仲良く遊んできたよね。一緒に学校へ行ったり校庭で遊んだり、テレビ番組の話で盛り上がったり? そんな風に、『今までは普通に暮らしてきた』のね。楽しかったね。これからもそうなの?」
「────」
「これからもそうなの? 同じように普通に暮らしていくつもりなのね? 司はそう思うのね?」
「……」
バンッと何かを叩く音がした。それだけで心臓が跳ね上がった。
「最初に言ったはずよ」と、流花は言い捨てる。
「君は障害者になったの。もう忘れたの!? 今までとは違うの、同じようには生きられないの! 見えていた頃の栄光は教訓にこそすれ縋ってはだめ」
流花の言葉に心が揺れた。根拠の知れない不安が押し寄せる。
「もしかして、まだ、分かってない? 自分がどんな状況か分かってない? 周囲の人たちに違和感を感じない? 今までの君はあっち側にいたの、でも今は違うでしょう? よく考えて、今の自分を受け入れなさい。自棄にならないで、新しい自分をちゃんと見なさい!」
「いっぺんに言わないで! 分かんないよ!」
思わず叫んでいた。はっきり言って流花の喋っていることは意味が分からない。意味が分からないのに、何故か追いつめられているような気分になった。とりあえず何を置いてもまず、流花が優しくない。
大きなため息が聞こえた。
「…次の授業は2週間後にするわ。それまでさっき私が言ったこと、よく考えて」
その声からは隠せない苛立ちが伝わって、それに僕は傷ついた。居心地の悪い重苦しさを味わった。
「返事」
「…はい」
ここでの暮らし、楽じゃないわよ。
今更ながら、初日に流花から言われた言葉を思い返していた。
「最近、蘭、見ないね」
何度目かの流花の授業の合間、僕は気になっていることを訊いてみた。
流花の足音が止まり、少しの間がある。「そうね」
「蘭にはしばらくこっちに来ないように言ってあるの」
突き放されたような言い方。
「どうして?」
「甘えちゃうから」
「…誰が? 誰に?」
「司が。蘭に」
「…なにそれ」
少しの苛立ちを覚えた。「蘭は関係ないじゃん」
流花さんにそんなことする権利ないよ。
「あのね」ため息を吐く。
「何度も言ってるけど、常に冷静でいなさい。司はちょっとカッと成り易すぎよ」
「それは流花さんのせいだよ」「他人のせいにしない」「…っ」
一言で黙らせられた。
多分、僕は間違ったことは言ってないはずなのに。
「感情を荒げないで。聞こえるはずのものが聞こえなくなるわ。…怒るなって、言ってるんじゃない。その感情をわざわざ表に出すことに労力を使わないでってこと。喜怒哀楽を感じるのは大切だけど、それだけで気持ちをいっぱいにしないで、外からの情報を逃しちゃだめ。目は能動的に物事を捕らえることができるけど、耳や鼻は受動的…つまり相手が発してくれない限りそれをキャッチすることができない。だからいつも注意して、アンテナを広げておかないとね。わかる?」
「…よくわからない」
「わかりません、って簡単に言ってしまうのは、わかるつもりがありません、って意味よ。あなたの体のことなの、もう少し親身になって考えてみて」
「だってこれは僕のせいじゃないッ!」
僕の顔───目があるはずの位置を指さす。
「こんな怪我したのも、そのせいでここにいるのも、こんなことしてるのも、全部、僕のせいじゃないじゃないか」
一気に叫んでしまうと息が上がった。しばらく肩が上下する。
「じゃあ、誰のせい?」流花はさらりと尋ねた。
「…っ!」
ハッとした。
思わず口を塞ぐ。その指が震えた。
思ったことをそのまま口にしてしまったけど。そうだ、僕は、
(一体、誰のせいだと思っていたんだろう───)
考えるまでもなく、両親の顔が頭に浮かんだ。(違う)必死で否定する。(違う!)
そう思ってしまうのは汚い。自分のそんな感情を認めたくない。
確かに、お父さんとお母さんは僕を置いていってしまった。だからといって、何でもかんでも2人のせいにしてしまうのは卑怯だ。
どこかに原因があるという考え方は、もしかして間違ってる?
僕のせいじゃないのは分かってる。ただ、その原因のせいにしたいとは思う。
どうして? 何かのせいにすれば、気が楽になるから。
ほんとに? 楽になるはず。
楽になりたい、この息苦しさから。
その上、自分が嫌なヤツに成り下がってしまったら、本当に最低だ。
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