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 こんな出来事があった。
 その夜は大きな台風が上陸していた。壁を軋ませる暴力的な風と、屋根に穴を開ける雨が、関東中を襲っているような、不安定な煩い夜だった。
 雷が鳴っていた。まだ、遠い。
 そして頭痛。
 蓮家に居たときからこれだけは直らなかった。(流花はそれを当然だと言ったけど)
 雷の音に掻き消され、他の物音が聞こえなくなる。それ以外、何も聞こえなくなる。途端に世界がわからなくなる。
 流花曰く。「継続して目が眩んでいるのと同じような状態かしら。見える人間にとっては」
 雷が酷いとき、動けなくなる。遠ざかるのを待つしかない。
 だからこの日も、僕は居間のソファに座って丸くなっていた。
 それはちょうど雷がひとつ、鳴ったときのこと。
 パチという音が鳴り、突然、蛍光灯がヴン鳴り始めた。
「わ…っ?」
 思わず声を上げてしまう。続いて、トトトトッ、小さな足音が近づいてきた。「え?」
 トン、と床を叩く音がして、膝の上に何か降ってきた。それは「にー」と鳴いた。
「え…、ネコ?」
 恐る恐る手で触ってみると、柔らかい毛並みが擦り寄ってくる。その確かな重さと温かさに、何故かほっとした。
(あ…)
「史緒?」
 居る、という確信。
 その通り背後に彼女はいた。さっきのパチという音は史緒が部屋の照明をつけた音だ。
 史緒は無言のまま歩を進めて、僕の向かいのソファに腰を降ろした。何も言わなかった。
「どうしたの?」
 ネコは僕の膝の上に座り尻尾を丸めていた。居座る体勢だ。
「…ネコが、降りてきた、から」
 と、史緒は小さく答えた。
(そうじゃなくて)
 ネコを連れてさっさと部屋へ戻ればいいのに。
 でも史緒は戻ろうとはせず、じっとソファに座っていた。
(何のつもりだろう)
 いつも部屋に閉じ篭もっているくせに。
 こんな風に史緒と向き合うのは初めてだった。でも史緒はやはり何も喋らず、気まずい沈黙が始まる。
 櫻がいるときのような感情の乱れが、今の史緒には無い。何を見てるんだろう。(何も見てないかも。もしかしたら寝てるのかも)それくらい、静かな呼吸。静かな、時計の音。
 多分、ここに櫻が現れたらそれは一変するんだろうな。
 櫻に怯えてる史緒と、今みたいに穏やかで静かな史緒。対極な2つの史緒しか僕は知らない。
 蓮蘭々とはどんな風に接するんだろう。おじさんや咲子、和成とは? そして片時も離れないでいるネコ。
 そのネコも今は僕の膝の上にいるけど。
 こんな風に生き物を触ったのは久しぶりで、その確かな温かさは不思議な感覚だった。
 ───いつの間にか雷の音が遠ざかっていた。
(いつのまに)つい10分前との落差に驚く。
(独りでいるときとこんなに違うんだ)
 膝の上のネコの温かさだけで、安心することができるなんて。ネコだけじゃない。
(……?)
 ふと、向かいに座る人物がここに居ることの理由を想像してみた。
(まさか)
 彼女に、他人が見えてるとは思えない。
「…史緒?」
 窺うように呼ぶと、
「ん?」
 小さい声だった。けれど確かに聞こえた。史緒の、短い返事があった。
「───…っ」
 それだけのことに妙に感心した。
 史緒は本当は返事をするのも億劫なのだろう。頷くとか、そういう仕草で意思表示したいのではないか。それでも声を出して返事をしたのは、相手が僕だからだ。そういう気の遣い方ができる人間だとは思ってなかった。
「酷い天気だね」
「……。ね」
 ワンテンポ遅れて返事がくる。
「なんかネコが、首の辺り引っ掻いてくるんだけど」
「…クセ」
「ふぅん」
 爪は出てないようで、痛いわけじゃないけど、さっきからポンポンと胸を叩かれている。(猫にも癖なんてあるんだ)
「和成さんって、今出かけてるの?」
「和くんは。学校」
「マキさんは来てないよね、櫻は?」
「───」
 途端に、史緒は黙り込んだ。呼吸が凍り付くのが伝わった。
「…ごめん」
 何故だか、謝ってしまう。
 大体、櫻がいるなら、史緒が階下へ降りてくるはずはないんだ。分かり切っていることを聞いてしまった。
 僕自身、少し喋りすぎていたようで、後悔した。そして気付いた。
 この天気から気を紛らわすために、僕は史緒に話しかけていたんだ。自分の未熟さに笑いが込み上げた。
 そのとき、廊下の向こうから玄関が開く音がした。一瞬だけ雨の音が大きくなって、また小さくなった。
 ガタンッ
 ソファから立ち上がった史緒、テーブルに足をぶつけたらしい。
 玄関から近づく足音に一気に緊張する。総毛立つように、全身身構えている。
「和成さんだよ、櫻じゃない」
 足音でわかっている。わざわざ教えてやったのに、
「…ゃ」
 史緒は僕の言葉を信じてない(というより聞いてない)ようで、逃げ腰、不器用な足取りでキッチンのほうへ避難してしまった。
(なんで分からないんだろ)
 こんな当たり前のような、足音の違いに。
 それに僕の言葉にまったく耳を貸さない史緒の行動にもちょっと不満だった。
 がらり。リビングの引き戸が開く。
「司? 珍しいね、電気つけて」
 和成が現れて声をかけた。
「ううん、史緒が…」「史緒?」
 説明しようとしたところで、
「和くん!?」
 史緒の声。さっきまでのおどおどした声でなく、はっきりと意志のある響きだった。
「ああ、いたのか。ただいま」
 パタパタと駆け寄る足音。「おかえりなさい」
 きっと史緒は和成に対しては、その目を見て話しているんだろうなと思った。
 僕と話してるときに目を見られても困るけど(意味無いし)、多分、その場合は史緒はこちらを見てない。
 櫻への恐怖、ネコとの静逸。もうひとつ、3つめの史緒を見た思いがした。
 なんというかやっぱり。
 史緒にとって一条和成は特別な存在なんだろう。

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