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≪6/11≫
阿達咲子の死に、僕は泣かなかった。
何度か会って、その度に仲良くしてもらったのに。
どうして泣かないんだろう、感覚を鋭くすると感情が鈍くなるのだろうか。それとも自分が思っているほど、咲子と打ち解けていなかったから? 他人と、どこか一線を引いている自分を自覚しているから?
報せを聞いたときはむしろ驚いた。
咲子が重い病気で入院しているのは知ってた。まさか本当に死ぬなんて夢にも思わなかったから、だから、驚いた。
僕は泣かなかった。
ただ、少し息苦しくなる。肺の中をつねられたような、胸の痛みだけを感じていた。
1995年4月。
その日はとても暖かくて、やわらかい風が吹いていた。汗ばむほどでもなく、おだやかな陽気で、髪の隙間を通り抜ける風が本当に気持ちよかった。多分、空は青い。
沢山の人が集まっていた。
空から顔を前に戻すと、鼻につく線香の匂い。雑踏のひといきれも濁り、途端に気分が悪くなった。
仕方ないけれど、そちらへ歩き出す。
通り過ぎる人達から二種類の会話が聞こえてくる。その違いで、咲子と仲良くしていた病院関係者か、おじさんの会社関係者かを区別することができた。
「天下のアダチ社長夫人が一度も公の場に出ることなく死ぬとはね。一部の経済誌はネタにするかな」
「経済界に限らず、大物が集うパーティは異性同伴が暗黙の原則。社長もよく我慢したよ」
「娘はアレだしな、息子はたまに見かけたけど」
「実際、社長夫人と面識あるヤツ、いるの?」
「無いけど、どこかの社長令嬢だって聞いたことある」
「なんだ、結局は閨閥かよ」
そんな会話が聞こえる。意味はよくわからなかったけど、咲子があまり良く思われてないのはわかった。
そのとき、
「おい! 子供に聞かせる話じゃないだろう!」
と、一喝する声があった。
噂話をしていた人達とは明らかに違う年代、多分、50歳くらいだろう。そしてこの場合「子供」とは僕のことだ。
一喝されたほうの面々は気まずそうに散っていった。
男は軽く息を吐いた。
「こんにちは」
先ほどの一喝とは違う、かすれた低い声。でも口調はしっかりとして、鋭さを感じさせた。
「君が七瀬司くん?」
「はい、そうです」
名指しされたけれど、こちらは初対面だ。記憶違いはない。
「娘が世話になったそうだね、ありがとう」
「娘?」
「あの子は小さい頃から病気ばかりで学校へも行けなかったから、友達が欲しいというのが口癖だった。司くんも、あの子の友達になってくれたんだろう?」
「…。───ぁ」
男性は、阿達咲子の父親だった。櫻や史緒の祖父にあたるはずだが、この人の存在を聞いたことは無いので、正直驚いた。
年齢は、僕の読みが外れて60歳だという。阿達のおじさんのように、この人も会社を経営しているらしい。
「会社と言っても、名もない中小企業だよ」
それは謙遜なのか劣等感なのか考える。どちらでも無い気がした。つまり事実。
「咲子が死んで、これでさらに阿達から足が遠のくな」
と、咲子の父親は苦笑した。
「咲子は成人まで生きられないと言われていた。それが結婚までして、3人も子供を産んだ」
(3人…?)
「あの子は幸せだった。…阿達には感謝してるよ」
その人は僕の前では最後まで態度を崩さなかった。もしかしたら阿達のように、今日までに気持ちを整理してきたのかもしれない。
「司。史緒を見なかったか?」
阿達政徳が僕のところへ来て言った。彼は今日の喪主だ。
史緒は朝から見てない。
「いいえ」
「そうか…」
阿達はここ数日の疲労が明らかに表れている。立場上、会社の仕事も休むことができない。ここ数日は会社と家を行ったり来たりで、多分、寝てないはずだ。
「和成さんと一緒じゃないですか?」
「いや、和成は真木君の手伝いをしているから…」
「櫻は?」
「あいつは専務の相手をしている」
「そうですか…」
史緒の居場所は本当に分からないけど、多分、史緒は今日一日現れないだろう。嫌なことからはとことん目を逸らす、彼女の悪いところだ。
2日前、咲子は自分の最期におじさんしか呼ばなかった。終わった後に家に連絡が来て、櫻とマキと僕が病院へ向かった。史緒は「どうしても行きたくない」と声を荒げて拒否し続けたので、しょうがなく和成も残ったのだ。
「阿達くん」
離れた所から声がかかった。女性にしては少し低い声、年は30代から40代あたり。
「……和代?」僅かに上ずったおじさんの声。
呼びつけにしたのが意外だった。おじさんは本当に驚いているようで、何度か深い呼吸を繰り返し、息を整えていた。
「久しぶりだな」
「ホントにお久しぶり。あなたとは10年以上、会ってなかったわよね」
「咲子とは、会ってたんだろう?」
「もちろん、親友ですから」
そこまで明るい声で言ってみせていた女性は、声を詰まらせた。「この度はご愁傷様です。…本当に」
「君もな」
「───ねぇ、お隣の子は? 櫻くん…じゃあ、ないわね。確か大学生だったから」
「ああ、ちょっと世話してる子だ」
「七瀬司です。はじめまして」
「はじめまして、こんにちは。関谷といいます。阿達くんと咲子とは古い友人なの」
ああ、なるほど、と初めて納得できた。この関谷という女性と、咲子さんとおじさんは昔からの友達で、おじさんは仕事が忙しく会う機会が減ったが、咲子さんとは付き合いが続いていたのだろう。
「旦那はどうした」
と、おじさんが尋ねる。
「後から来るわ。私は息子と一緒に」
「! …子供、いたのか?」
虚を突かれたような声をあげた。その反応がおかしかったのか、和代は苦笑した。
「10年以上ぶりだもの、お互いの状況が変わるのは当然よぉ。ウチの子はもう高校生。───ぁ、いたいた。…篤志!」
声を強めて、遠くへ声を投げる。その声に応えたのか、ややあって足音が近づいてきた。
足音は背後から駆け寄り、脇を通り過ぎて、関谷和代の隣で止まる。なに? と小さく囁いた声が聞こえた。和代が答える。
「阿達くんよ。それに七瀬くんですって。挨拶なさい」
足下の土が鳴り、こちらに向き直ったのがわかった。
少しの沈黙の間に、何故だか、彼(?)は息を飲んだ。
微かな緊張が伝わってきた。
(───…?)
緊張?
しかしそんな気配が嘘のように、次に発せられた声は、落ち着いた力強いものだった。
「はじめまして。関谷篤志です」
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