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「ケータイ!」
 何故か未だその男の手のひらの中にあるものを指して三佳は噛み付くように吠える。
「さっさと返せ」
 三佳は車の助手席に、ドアに張り付くように座っていた。できるだけ、運転席の男から離れるために。
 場所は海沿いにある、とある企業の社員用巨大駐車場。収容車数は百台強。いつもは夏をさらに暑苦しくさせるくらいに色とりどりの車がひしめき合っているだろうが、今は見事なほどに見晴らしが良い。この車を除き一台として鉄の塊はなく、無駄と思える空間がそこには広がっていた。守衛室も無いほとんど野晒しの駐車場は当然通り掛かる人影もない。
「キミ、若いのにメモリロックの習慣あるなんて、用心深いんだな」
 事の深刻さを理解しない蔵波の神経には、出会って2時間しか経過してない三佳も充分すぎる疲労を覚えていた。
「…史緒が言った通り、これは犯罪だぞ」
 無駄だと解っていたが三佳は牽制を試みる。
「七瀬が来ればすぐ帰れるよ」
「大体、何で“七瀬”に会いたいなんて思うんだ。もう何年も前のことなんだろう?」
「阿達の娘に会って思い出したんだよ、一緒にいることは噂で知ってたから。七瀬の事故はね、そりゃすごい騒ぎだったんだけど、あやふやなまま口封じされてそれだけ。事故のとき酷い怪我をして病院に担ぎ込まれた後のことは誰も知らない。加害者側の人間としてはその子が元気でやっているか、知りたいと思うのが人情だよ」
「さぁな」
「七瀬夫妻は共働きだったし、普段構えない子供に職場を見せたいってーのは気持ち解るけど、それがあんなことになっちゃうんだもんなぁ。世の中何が起こるか分からんね」
 ぺらぺらとよく動く口から語られる言葉、三佳は耳を塞ぎたかったがあからさまな態度を見せるのも嫌だった。
「アダチ一研は工業用研磨機のレーザーの開発をしてたんだ。大きい工場だし、勿論、安全面にも充分配慮している、それでも起きた事故だ。…レーザーの傷ってのはちょっと厄介でね、電気による裂傷は細胞の死滅と同意で皮膚は再生しない。紫外線照射による色素沈着で発ガン性を持つ場合もある」
「───」
「まぁ、最悪なのは眼障害だけどね。生体への透過力は少ないレーザーが、最も体内深部を傷つけられるのは眼底だ…おっと、君にはちょっと難しかったかな」
 自分から勝手に喋っておきながら蔵波は肩をすくませて三佳に笑いかけた。その話の中でも、蔵波の声や表情からは心痛や悔恨は感じられなかった。
「黙ってくれないか」
 強い声で言うと、三佳は蔵波から顔を逸らし窓の外を見た。
(この男は何も知らないんだ…)
 司が負った障害も、その後のことも、なにも。
(───どうしよう…)
 三佳は額に手を添えて激しく自己嫌悪していた。今、立っていたら崩れ落ちてしまうくらい、どん底だった。
(私としたことがこんなヤツにあっさり攫われるなんて)
 プライドが酷く傷ついた。普段、高く掲げているだけにダメージは大きい。落ち込んでいる暇は無いと判っているのに、三佳は回復しそうも無い疲労感に襲われていた。
 そしてさらに、三佳を苦しめるものがある。
(怒ってるかもしれない)
 それを思うと途端に不安になる。
(多分私は…恐れているんだろう)
 彼は蔵波に会いたいとは思ってないだろう。近寄りたくもないかもしれない。それなのに、こんな風に自分のせいで会わざるを得ない状況を招いてしまった。
(…どうしよう)
(怒ってるかな)
 もしそうだとしても、それを態度に表す性格じゃない。その感情の変化に、もし自分が気付けなかったらと思うと怖い。
(どうしよう)
 こんな足手まといじゃ、隣にいられない。
 こんなただの子供じゃ、信頼をくれないかもしれない。
 見限られるかもしれない。
 そう考えたら泣きたくなった。
 彼の相棒たり得たのは、性格的な相性を除けばこの利発さと歳不相応な判断力、思考力が、彼の助けになりなにより不利益を生まないからだ。
 打算的であることが悪いとは思わない。三佳は彼のそういう計算高くどこか冷めた目で他人と接するところが好きだ。だからこそ、打算した末に、それでも隣に居させてくれることを自惚れてもいいのだと思っていたのに。
「急に静かになったけど、どうかした?」
「どうもしない! 退屈で眠くなっただけだ!」
「そりゃすまない。あぁ、そういえば君のことも少し調べたよ」
「…え?」
「島田博士の愛娘だってね」
(───…)
 吐きかけていた息が止まった。

 単純に驚いたんだと思う。
 一瞬、頭が真っ白になって、次に吐き気が込み上げた。
「俺は元は電子屋で今の職場は畑違いなんだけど、閑職の管理部で噂には事欠かない。2年前のこともよく知ってる。当時、業界五指に入る大手がまるまる潰れたんだ、その後の市場争いは見物だったよ」
「…っ」
 三佳は口元を押さえているために耳を塞ぐことはできなかった。
 「2年前のこと」というのは三佳がA.Co.に来る直前にあったことだ。
「島田ご息女の噂もあったけど結局表には出てきずまい…。それがまさか、峰倉みたいな小さな卸屋にいるなんてな」
「…うるさい」
「矢矧義経の最後は意外だったけど、君のお父さんの事件も掘り返されたし」
「黙れッ!」
 狭い車の中に千切れた声が響く。助手席で三佳は強く頭を抱えた。
「───…っ」
 呼吸が乱れ歯を食いしばる。
「具合でも悪いのかい?」
「……だまれ」
「年上の人間にそういう言葉遣いは感心しないな。島田芳野や矢矧義経はそういう躾を君に」
「やめろッ…たかが報道された程度の知識で軽々しく名前を口にするな!」
(悔しい)
 それ以上、声を出せなかった。歯を食いしばらなくてはならなかった。
 鼻先が冷えて目頭が熱くなる。(泣くな!)こんなヤツの前で。
 蔵波が口にした二つの名前は勿論よく知っている。
 どちらも、好きとか嫌いとかそんな単純な感情では表せない人間で、三佳を含めた3人の関係を想うと胸が切り裂けそうになり空気が苦くなる。
 昔のことを引きずり悩む自分が嫌で確執を解こうとした、でも一人じゃ、見えていなかった事実ばかり浮き彫りになって何も解らなくなる。
 夢だけが繰り返される。
 史緒と篤志は、蔵波の言う「2年前のこと」を知っている。でも2人ともそれについて口にしたことは無い。史緒は、「2年前のこと」で魘されている三佳を見ても、尋ねないでいてくれる。
 そして恐らく最も三佳を理解してくれている人物も、現在の三佳だけを見てくれる。
 もしかして甘やかされてきたのだろうか。こんな風に他人の口から語られることが辛いなんて今まで知らなかった。
(……)
 そのとき、三佳の視界の端に人影が映った。その人物の特徴を識別するより早く、三佳の目から安堵の涙がこぼれた。
(来てくれた)
 その人物を確認するより早く、三佳は口にしていた。「…つかさっ」
「来たかっ」
 蔵波は意外な機敏さで反応し、視線を三佳に合わせる。息を弾ませて、獲物を見つけたかのように目を輝かせて、今、タクシーから降りた二つの人影を見た。



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