キ/GM/31-40/33
≪4/6≫
だだっ広いコンクリの駐車場、大通りのほうから歩いてくる二つの影。
三佳は車から降りたとき初めて、篤志も来ていることに気付いた。
司はサングラスをかけて白い杖を持って篤志の前を速度を緩めずに歩いてくる。10メートル前まで来たとき、篤志が声をかけて、そこで司は足を止めた。
(あ)
三佳は自分の落ち度に気付いた。いつもの自分なら無意識のうちにやっていたことだ。足音や声を聞かせるなりして、こちらとの距離を教えなければならなかったのに。
(しっかりしろ)
思いの外動揺していることに気付く。
蔵波は運転席側から降り、車の前に立った。離れたところに立つ2人を見比べる。「どっちが七瀬くん?」視線は向けなかったが声の大きさからこれは三佳への質問だろう。
でも、司には聞こえたはずだ。
「はじめまして。七瀬司です」
カツンと杖を付く音。3歩、前に出る。
「…?」
蔵波は眉をひそめた。
目の前に立つ青年───七瀬司(8年前は11歳、年格好は合う)は若者らしからぬ野暮ったい眼鏡をかけて、何故か持っている右手の杖は白い。
「まさか…見えないのか?」
司はその問いを無視した。
「三佳!」
「ぅわ、はい!」
突然大声で呼ばれて三佳は上ずった声を返す。
「知らない人にはついていくなって、教わらなかったの?」
苦笑混じりの穏やかなよく通る声。からかうような台詞でもその表情は優しく笑っていた。
「……っ」それは本当にいつも通りの彼の言葉で三佳は思わずほころんでしまう唇を噛み締めた。(あ…っと)笑ってる場合じゃない、声を返さなきゃいけない。
司との距離は遠い。そこへ、落ち着いた声を返すには呼吸を整えなければならなかった。
「人間誰でも間違いはある!」
「あはは。三佳らしくないなぁ」
「買い被りはときに信頼関係を崩すぞ」
「教わらなかったんじゃないかなぁ」蔵波が口を挟んだ。「この子はずっと穴蔵生活だったんだし」
浮上しかけていた気持ちに影が落ちる。
「…やめ」
三佳が叫びかけたとき、少しの事情を知っている篤志が動いた、しかしそれより早く司が口にする。
「三佳、おいで」
穏やかではあるが有無を言わせない強い声。三佳は蔵波を蹴飛ばしてやりたかったがその余力はなかった。司の、その差し伸べられた手の方へ足を向ける。たかが10メートル。その距離がとても長く感じた。
空を歩くようなあてど無い足取りでどうにか辿り着くと、司は差し伸べていた手を引くと、三佳の頭にポンと置いた。
「篤志と、いて」
「え」
司は一言残すと蔵波のほうへ歩き始めた。「司? …わっ」
突然、足から力が抜けた。篤志が三佳を抱え上げたのだ。
「おろせ!」
「暴れんな、大人しくしてろ」
片手で荷物のように担がれて、三佳は慣れない高すぎる視点に目眩を覚えた。「お〜ろ〜せ〜」「大人しくしろっつーの」
でも実際、降ろされたとしたら三佳は自分の足では立てなかっただろう。膝が笑っていた。張り続けていた緊張が司を見たときから一気に解けて、圧しかかる疲労感に襲われていた。
「何、泣かされてんだ。おまえらしくない」
三佳の顔を覗き込んだ篤志が言う。
「ば…っ、泣いてなんかない!」
「はいはい」
三佳は咄嗟に司のほうを見た。蔵波のほうへ歩いていく、どうやら聞かれなかったようで安心する。
しかし司の耳に入らなかったはずはなく、何より篤志はそれが狙いでわざと口にしたのだ。
*
司は蔵波の3歩前で止まった。最初の会話で距離は掴めている。
「は…はは、本当に見えないのか?」
蔵波は調子が外れた声で言った。笑っているようにも聞こえた。
「ええ、おかげさまで」
「全然? 少しも見えない?」
「そうです」
「あの、事故のせいで?」
「そうです」
「アダチの社長は知ってるのか?」
「勿論。社長はずっと、僕の後見人をしてくれています」
それを聞くと蔵波は少し驚いた顔を見せ、次ににやりと顔を歪ませた。
「…あぁ、あの夫妻、まだ見つかってないのか」
「そうです」
「まっさかあの夫婦が逃げるなんて大それたことするなんてなぁ」
「…」
「同じ工場に勤める研究員で職場結婚。ま、下っ端だったけど、真面目で仕事好き。どっちかってーと気が弱くて意見を主張できない人種だと思ってたけど、人間分からないものだな。…そうそう、俺、キミにも会ってるよ、あの事故の日にさ。お母さんのほうに連れてこられてたろ? で、課内の人間にも可愛がられてた。キミは父親似だって連中から指摘されてお父さんは」
「蔵波さん」
「あ?」
「僕の顔を見て気が済みましたか」
「棘のある言い方だな。…そうだな、あの事故の関係者の一人として謝罪するよ」
「…」
篤志は司の足取りに気を止めた。
一見そうは見えないが司は少しずつ、蔵波との距離を詰めている。
会話をしながらも、地面に足を擦るようにして気付かれないように。
「…何か狙ってるな」
司は暇無く蔵波との言葉のやりとりを続けていた。(わざとだろう)
おそらく司は、蔵波に喋らせることで間合いを取っているのだろう。
「え? どっちが?」
三佳が聞いてきたが無視した。目を離すわけにはいかなかった。
篤志はもう司の狙いが読めていた。
(位置的にもう少し…)そう思っても、司がどこまで正確に距離を測れるかは知らない。
すると。
司は一歩を踏み出すと同時に右手の杖を手の中で滑らせ、振り上げた。
手首を使って逆手に持ち替えると、肩を逸らし振りかぶって、勢いよく杖を叩きつけた。
「ガ……ぁッ」
杖の先は蔵波の胸を撃った。
鈍く硬い音がした。
「──────…ッ!!」
三佳は息を吸いながら悲鳴をあげた。見てしまったと解っていても、一瞬、視線を逸らさずにいられなかった。胸の痛みを想像して苦しくなる、思わず篤志の肩にしがみついた。
篤志は僅かに眉をしかめた他は、三佳に比べればずっと冷静だった。司が杖を振り上げた時点で止めに入ることもできたが三佳を抱えているので危険なマネは避けた。どちらにしろ、さっきの司の俊敏さには間に合わなかっただろう。
「あれはヒビ入ったな…」
篤志が痛々しそうな表情で呟く。もちろん、同情はしてない。
「───…」
三佳は歯を食いしばったまましばらく声が出せなかった。
恐る恐る視線を戻すと、司の背中の向こう側で蔵波が胸を押さえてうずくまっているのが見えた。篤志の言う通り肋骨をやられたのかもしれない、肩で浅く呼吸を繰り返していた。
30秒後、咳とともに「…ぃきなり何を」という途切れ途切れの声が聞こえた。蔵波は顔を上げると司を睨みつけた。
「訴えるぞッ」
「どうぞ」司は肩をすくめ、言い放つ。「拉致監禁も軽い罪じゃない」
蔵波は何か反論しかけたが司はそれを無視するために言葉を続けた。
「傷害のほうが重いけど僕は未成年で障害者だし、それに過失を主張します」
「目撃者がいる」
蔵波が自信たっぷりに言うと、司はくすと笑って、篤志のほうを振り返った。
「誰か、見てた?」
「わりぃ、よそ見してた」
さらりと篤志が答える。
司は蔵波に向かって。「だ、そうです」
蔵波は顔全体を歪ませて何か叫んだが三佳には聞き取れなかった。司はしばらく蔵波の発言を大人しく聞いていたがそれにも飽きると、3歩下がって杖の構えを解いた。蔵波はまだ立ち上がることができない。
「8年前の事件について、僕は誰も恨んでいません。けど、今日のことは許さない。謝って欲しくもない。…───2度とその声を僕に聞かせないでください」
と、静かに、けれど強い声で言った。それを最後に踵を返しかけて、さらに一言。「ああ、それから。三佳のバイト先にも二度と顔を出せないよう、手を回させてもらいます」
「やりすぎた覚えはないよ」
戻ってきた司は篤志に言った。
「わかってる」
何を言っても無駄だと悟り、篤志は抱えていた三佳をゆっくり降ろした。
すぐに司に駆け寄ると思っていたが意外にも三佳は一歩も動かずに、気まずそうに司の顔を窺っていた。
ともかく、あとは2人の問題だ。───そう見切りを付けた篤志は司に声をかける。
「俺は先に事務所へ帰るよ。史緒が待ってるだろうし。峰倉さんにも連絡しておく」
「よろしく」
そして司は、まだ一歩も動けないでいる三佳に強い声で呼びかけた。
「三佳、行くよ」
「え、…あ、あぁ」
司が歩き出し、それに三佳が続いた。
三佳と司が並んで歩いていくのを確認した篤志は、ひとつ息を吐くと蔵波に近づいて膝を落とした。
「大丈夫ですか?」
やっと正常な呼吸を取り戻した蔵波は胸を押さえたまま吐き捨てる。
「なんなんだ…ッ、おまえら! 俺が何したってンだ…ッ」
「三佳を連れ去るんじゃなくて、直接、七瀬司に当たってれば痛い目に遭わなくて済んだと思いますよ。まぁ手間を省いた代償とでも思って受け取っておいてください」
「はぁ? なに言ってんだッ。…ったく、覚えてろ!」
「下手なマネはしないほうがいい。定年間近のあんたの職を無くさせるくらいはできる」
「馬鹿言えッ」
「あいつの後ろにアダチの社長が付いてるのは知ってるだろ?」
「───」
蔵波が黙り込んだのを確認して篤志はにっこり笑った。
「救急車、呼んでおきましょうか?」
「…ちッ」
蔵波は視線を逸らして舌打ちした。救急車はいらないと篤志は判断して立ち上がる。
もうこの男に用はなかった。
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