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▲1.史緒
 10年前───
 夜中、家中に響き渡る悲鳴に、一条和成はベッドの中で目を覚ました。
「……ぇ!?」
 最初は大きな「音」としか認識しなかった。しかしそれが「声」だと判ると、和成はベッドから飛び起きた。
 ドアを開けると、廊下は暗い。しんと静まりかえっている。先ほどの悲鳴の余韻は感じられない。
 高い声だったように思う。声はこの家の中のものだ。
 どうするべきかと迷った一瞬、和成の部屋のさらに奥の部屋のドアが開いた。
 逆光のなかから13歳の少年が重たい足取りで顔を出す。
「───あんたの仕事は、まずコレをどうにかすることだよ」
「“これ”?」
「安眠妨害だ。…ったく」
 そう言いながらも少年に寝ていた形跡はない。昼間と同じ服装で、片手に本を持っていた。読書用の眼鏡の奥から鋭い視線を向けている。
 この家の長男、阿達櫻だ。
 櫻も、さっきの悲鳴を聞いたのだろうか。
「今の…」
 そう問いかけると、
「あいつ以外に誰かいンのか?」
 そう言い捨てて、櫻はドアを閉めた。



 一条和成が阿達家の長女の家庭教師兼世話役として雇われてから4日が過ぎた。
 和成がここにくるまでの経緯は長くなるので割愛。就中切実だったのは、訳あって住んでいた場所を離れなければならなくなり、慌てて住み込みのアルバイト(しかも大学の近く)に飛びついたことが挙げられる。一方、このバイトを持ちかけてきた阿達咲子には恩があったので断われなかったという事情もある。というより、恩返しのチャンスに自ら飛びついたのだ。
 子供の面倒を見るということが生易しいこととは思ってなかったが(女の子だっていうし)、実際会ってみると予想以上に手強い子供だと悟り目眩がした。
 阿達史緒は7歳の女の子で、本来は義務教育が始まる年代のはずだが学校へは行っていない。何か事情があるのだろうか。会ってみて了解した。事情を聞くまでもなかった。
 挨拶をしたとき。口端で笑うこともなく、視線を合わせようともしない。手持ちぶさたな指先が細かく震え続けていて、どこか不安げな表情をひくつかせていた。常に挙動不審で、すぐに自室へ引き篭もってしまった。
(この子はどこかおかしいのか)
 そう思えるほど血走った両眼が中空をさまよっていた。
 兄の阿達櫻は13歳。彼は中学生とは思えないほど落ち着いていて、弁が立ち、大人びていた。アダチの後継者というから、それなりの教育を受けているせいもあるだろう。
 2人を紹介してくれたのは真木敬子という通いの家政婦だ。「史緒さんも以前はああじゃなかったんですけど」と影ある笑いを落としていた。


「史緒!?」
 ドアを叩く。返事が無いのでそのまま踏み込んだ。
「ひ…っ」
 暗い部屋の奥から奇声が発せられた。シャッターも閉めているらしく外からの灯りも無い。暗闇の中から史緒の呼吸が聞こえた。和成まで息苦しくなりそうな嗚咽混じりの呼吸だった。
 スイッチで照明を点ける。
「…っぁ…」
 史緒はベッドの上で、枕を抱いて小さな体を壁に張り付かせていた。まるで溺れかけた後のように口を開けて必死で息をしていた。大きく見開いた両眼が和成を捉えた。
「夢でも見たの?」
 近づくと、
「…き…ゃ!」
 逃げるように史緒は壁伝いに部屋の隅へ転げた。頭を抱え、嘘みたいに震えていた。
(怯えてる…?)
 和成からできるだけ逃げようと壁に体を押しつける。その様子が明らかに尋常ではなかったので、和成は駆け寄って史緒の腕を取った。
「…ひ」
「史緒?」
「やだ───ッ、はなして…はなしてぇ!」
 爆発したように叫んで、手を振り払い、和成を近づけさせまいとする。
(何なんだ、この子)
(子供ってこんなもんだっけか?)
「どうしたの? 大丈夫だよ?」
 それでも史緒は逃げることを諦めなかった。手を掴まれたままでも顔を背け、腰が抜けたような足取りで部屋の隅へ向かう。
(あーもう面倒くさい)
「史緒っ」「!」
 小さな体を強く抱きしめると史緒は和成の腕の中で暴れた。「…っ」
 痛くないわけないけど所詮は子供の力だ。それでも押さえつけていると、危害は無いと判ったのか史緒は次第に大人しくなり、少し警戒しながらも和成の腕に体重を預けた。
 こんな小さい子を抱っこしたのは久しぶりだった。
「ぅ───…」
 和成の肩に顔を埋め、声を抑えて泣く。
「怖い夢だったの?」
 そう尋ねると、史緒は頭を横に振る。
 返る言葉は無かった。
 やっと落ち着いた部屋を見回して和成は溜息を吐く。
(やれやれ…)
(咲子さんも大変な仕事くれたもんだ)
 安請け合いしたことは後悔しないけれど。
 もう寝たのかと思うほど史緒が静かになったとき、小さな、掠れた声が聞こえた。
「……どうして…? 櫻…ッ」
(え───?)
 語意を聞き返すことは、このときはできなかった。

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