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▲3.ネコ
 梅雨時で、その日は雨が降っていた。
 和成は大学からの帰り、駅から家へ、傘をさして歩いていた。
 その途中。
 雨で霞んでいて最初は分からなかった。
 道端に座り込む小さな白い影があった。(なんだ…?)民家が途切れた道路の隅、道路に背を向けて座る人影。霞んだ景色のなかで雨宿りするでもなくただ膝を抱えてその場にいた。
 その、なんとなく見覚えのある後ろ姿に和成の表情は大きくゆがむ。
(まさか)
「史緒…?」
 呼びかけてもぴくりともしない。
 長い黒髪は雨を滴らせてその下の服と肌を冷やしていた。和成は青くなる。「史緒!」
 そこで初めて反応して振り返る。そこに佇んでいたのは史緒だった。急いで傘を向けた。
「…和くん?」
「滅多に家から出ないのに……傘もささないで何やってんだ!」
 大声を出しても史緒は表情を変えない。
「…ねこ」
 と、小さく呟いた。
「ねこ?」
 史緒は視線を戻しただけでそれ以上喋らなかったので、和成もその視線を追う。
 史緒が座る先に雨でしなびた段ボールがあり、(黒い……なんだコレ?)その段ボールの中に手のひら大の丸い黒い物体が入っていた。よく見るとそれは毛が生えている。さらに目を近づけるとそれは微かに動いた。
(…猫!?)
 捨て猫だろう。段ボールの中には小さな黒い猫がいた。微かに動くものの鳴く声は無し。かなり弱っているようだ。
 史緒はこの雨の中、ずっとここにいたのだろうか。
 褒められたことではないが、その間、史緒が何を考えていたのかは興味深い。
(史緒をひっぱって帰るのは簡単だけど…納得しないだろうな)
 一度溜め息を吐いてから、和成は上着を脱いで史緒の頭にかぶせた。その頭をぽんと叩くと史緒の隣に座り言った。
「この猫を見てたの? ここで」
「……うん」
「どうして?」
「───…ぇ?」
 訊かれた意味が分からない、と史緒は視線を返す。和成は優しく笑った。
「どうして、見てたの?」
「……」
 どうして猫を見てたのか。自分の行動の理由が分からなかったらしく、史緒はしばらく考え込む。
 当然だ。人間はいつでも理由有りで行動しているとは限らない。
「……寒そうで」
 自信無さそうに口にする。
「うん」
「…動けないみたいなの」
「うん」
「…元気に、ならないかなぁ…」語尾が震えた。「って…思って」
「うん」
「…でもなにもできなくて」
「うん」
「自分が、…馬鹿みたい」
「いきなり話が飛んだよ。どうして馬鹿みたい?」
 いじわるとも思える和成の質問に史緒は口ごもる。
「…願っても、何もしない」
「どうして何もしないの? どうすれば猫が元気になるか分からない?」
「ちがう…っ」突然声を荒げて和成を見上げる。「毛布と食べ物を持ってきて満足すればいいの? その今だけの私の気まぐれに猫は喜ぶの? それとも私の我が侭で猫を連れて家へ帰ればいい? そうすれば、あったかいしごはんもあげられるわ、それはわかってるの! ───でも、櫻がいるもの!!」
「…」
 和成は目の前の子供が───というより史緒が、ここまではっきりと自分の気持ちを理解しそれを言葉に表せる能力があることに驚いた。しかしそれよりも、
「…櫻?」
 櫻が、なに? そう聞くより早く史緒は言葉を継いだ。
「お人形やぬいぐるみとは違う、もし壊されたら…連れて帰ったことを後悔する! ───それを考えると…動けないの」
 捨て猫に対する同情。助けるためにどうすればいいかの思考力。連れて帰るとどうなるかの想像力。
(思ってたよりこの子は頭がいい)
 和成は少し驚いた。
 史緒がこんな風に意味のある言葉で雄弁なのは珍しい。怯えるか泣き叫ぶ声しか和成は聞いてない。
 部屋に引き篭もり自分の世界に閉じ篭もっているような子でも、弱者への思いやりがあること、少し嬉しかった。
「史緒が守ればいいよ」
「…まもる?」
「離れたくないという気持ちを我慢すること無い。もちろん責任も伴うけど、一緒にいたいと思ったならそうすればいい。もし、相手を傷つけてしまうような環境にあるなら、守ってあげればいい」
「私が?」
「そう」
「できるかなぁ…」
「できないなら、猫はこのままにしておこう。自分で面倒見れないなら、拾ってきちゃだめだよ」
「……」
「ただこの猫は、ここにいたらあと1日も経たずに死ぬけど」
「───っ」
 途端に史緒は表情を崩し息を飲んだ。
 その反応を見て和成は少し驚く。この子はこの歳で死という概念を理解している。
「どうする?」
「…」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「え?」
「何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる」

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