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▲5.煙草
(恐いのはそのままでいいから)
(この恐さが薄れなくてもいいから)
(おねがい)
(───その理由を早く忘れたいの)
史緒の足はその場に凍り付いた。
いつも、こう。
櫻を目の前にすると。
史緒はネコをぎゅっと抱きしめた。それだけでほんの少し安心することができた。
けど足が動かない。櫻を目の前にして史緒は立ちすくむ。手を伸ばせば届きそうな距離に櫻が立っている。自然、上から見下ろされて史緒は首を竦めた。
櫻は、開いた本のページを顎先に添えて、冷たい視線で史緒を見下ろしていた。その、見透かすような目を史緒はまともに見返すことができない。ネコを胸に抱き直し、うつむく。
櫻がそのまま過ぎ去ってくれることを願った。
しかしその願いも空しく、
「最近、夜中に馬鹿みたいな大声を聞かずに済んで清々してるけど」
「…」
「いつまで保つかな」
と、薄ら笑いを見せる。
(あぁ、見抜かれている)
史緒は固く目を閉じた。
もうそんなことに驚いたりしない。彼は本当に何もかもをよく視ているから。
無反応でいると、櫻は胸ポケットから煙草を取り出して慣れた手付きで火をつけた。
途端に煙の匂いが広がり史緒は顔を背けた。
「俺が邪魔なら俺を殺せば?」
「───」
弾かれたように、櫻に視線を戻す。
いつものように不敵に口端が笑っていた。でも目はいつもと違う。射るように史緒を睨む。
「できないならおまえが死ね」
(…)
一瞬。
それが真実であるような錯覚に陥る。
「何か言えよ」
「…」
「意地でも喋らないつもりか」
その声に少し怒気が含まれたかと思うと、
音もなく櫻の手が伸びた。
「!」
史緒は身構えた。何よりもネコをかばった。櫻の意図がわからなかった。煙草を持つ指が近づく。手が肩に触れた。逃げられない。
ジュッ
乾いた音がした。
耳元で。
音を聞いた。
ざわっと内臓が総毛立つ。
一瞬で身体から温度が消えた。
「───ッ!!」
史緒の腕からネコが降りた。すとん、と軽い音をたてた。
「…っ、ぁ…!」
有機物が焼けたときの独特な異臭。その匂いに、史緒の身体はよろけた。
平衡感覚を保てず、壁に背を打った。(寒い───)
そしてまた、櫻の手が近づいたときはもう遅かった。
もう一度、櫻は史緒の首筋に煙草を押し付けた。
「…ぃ」
唇を噛み締める。(痛い)と、やっと痛みを感じた。
剣山で刺すような痛みに、体中が冷たくなった。体中から熱が奪われたよう。
「へぇ。これでも声を出さないとはご立派」
(………っ)
意識が遠のきかける。足の力が無くなり、史緒は床に崩れ落ちた。
遠くで和成の悲鳴を聞いた。足音が近づく。(───大声ださないで!)声にはできなかった。
「史緒っ」
和成が駆け寄り、史緒を抱き起こす。その首の跡をみとめると、
「なんてことするんだっ」
と叫んだ。
「別に。口が利けないのか確認しただけさ」
「櫻っ!」
と、もう一度叫びかけたとき、
「きゃあ、史緒さん!」
遅れてマキが廊下に飛び出してきた。
白けたのか櫻はつまらなそうに肩を竦めて息を吐く。
「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」
「なにを…」和成が言いかけると、櫻は屈んで史緒の顔を覗き込んだ。
ひっ、と史緒は床の上で身を丸くした。
「今、ここにいる3人の中で、おまえの心情を理解しているのは俺だけだ。…やっかいなものだな」
語尾は笑いを含んでいた。調子に乗ったのか、櫻はさらに続けた。
「ついでだから教えておくけど、蓮家の末娘がよく顔を出すのはおまえの為じゃない。俺と同じ、目的の為におまえを利用しているだけだ。───…そうだな、そういう意味でおまえに死なれちゃ困るよ。前言撤回しよう」
櫻は立ち上がり、史緒を一瞥した後、
「死にはしねーよ、放っとけ」
そう和成に言うと、櫻はいつもの歩調で自室へ戻って行った。
和成は一瞬、櫻を追って彼を殴りそうな怒気に襲われたが、寸でのところで我に返る。今はそれどころではない。
震える声でマキが言った。
「あの…救急車を呼びます」
「やめて!」
鋭く放たれたのは史緒の声だ。
「…史緒?」
首を激しく横に振る。
「いらない」
「え?」
「静かにして」
* * *
その後、史緒は熱を出して数日間寝込んだ。
結局、史緒が最後まで拒んだので病院へは行かず、首の火傷は濡らしたタオルで冷やし続けるという古典療法しかできなかった。
首筋には痛々しい丸い火傷がある。
(痕が残るな…)
(女の子なのに、こんな怪我させるなんて)
櫻への苛立ち、それから史緒を助けられなかった後悔があった。
和成は今度ばかりはこの2人の兄妹について阿達政徳と咲子に一言言わせてもらおうと心に決めていた。
「…和くん?」
いつの間に目が覚めたのか、ベッドの中から史緒の声がした。
「ん?」
「蓮家のおじ様にお願いできないかなぁ…」
「なにを?」
訊き返すと、史緒はふいと壁の方へ顔を向け、言った。
「七瀬くんのこと」
「え?」
「ここじゃかわいそう」
「───…」
和成は胸の圧迫に息を飲む。
全身が熱くなって、その熱は急速に足下へ落ちていった。そして足下だけが熱くなった。
逆に冷たくなった頭が痛くなる、そのまま気を失わせないように手のひらを額に当てた。
胸の圧迫は、深い自責の念。
わかってしまった。
───色々なことが、いっぺんに。
「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」
櫻の言葉の意味も。
(いまさら…)
遅すぎる。
(史緒も櫻も、子供だと思って侮っていたのかもしれない)
あのとき史緒が声をあげなかったのは、2階に七瀬司がいたからだ。
ただでさえ神経を磨り減らして神経質になっている彼を、これ以上、不安にさせないように。
不穏な音で怯えさせないように。
───もうひとつ。
史緒が夜、悲鳴をあげなくなったのは司が来てからだ。よく居眠りをするようになったのも同じ頃。
恐らく夜はあまり寝ていないのだろう。夢に魘された自らの声で、司を起こしてしまわないように。独り、部屋の中で朝を待ったのだろう。
(俺という支えを得て感情が安定したんだろう───なんて、とんだ思い上がりだ!)
櫻は解っていた。
司に気を遣う史緒を嘲笑うように見ていた。
「これでも声をあげないなんて、ご立派」
試さずにはいられなかったような口ぶりに本気で吐き気を覚えた。
櫻の変質なところは、他人の痛みを想像できるのに、それを踏まえてなお他人を傷つけることができるところだ。
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