/GM/31-40/34
8/13

▲6.咲子
 阿達咲子はくったくなく声を上げて笑う人だった。
 生まれつき病弱であったにも関わらず、いつも笑顔で、少女のような仕種、彼女の目でしか見つけられない素敵なことを毎日見つけてはそれを口にせずにはいられない、そんな性格だった。
 阿達家の末子、史緒を産んですぐに療養施設に引き篭もった。というよりほとんど強制送還だと、咲子は苦笑する。
 初めて史緒を連れて2人病室に訪れたとき、咲子は上体を起こした姿勢で、
「お久しぶりだね。史緒」
 惜しみない笑顔を向ける。
「ずいぶん来てくれなかったでしょ? だから和くんに迎えに行ってもらったんだよ?」
「ちょっと、それ聞いてないですよ」和成が苦笑する。「素直にそう言ってくれればもっと早く連れてきたのに」
「無理に連れてきても意味ないもん。史緒があたしに会いたいと思ってくれなきゃ。ね?」
 史緒はぎこちなく、でも本心から微笑んだ。
「ごぶさた、してました」
「うん。来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
 心から愛しそうに史緒の頭を撫でた。史緒は戸惑っていたがすぐにその手に身体を預けた。
「ネコも初めまして」咲子は史緒の腕の中にいるネコの手を取る。「史緒のお母さんです。よろしくね」
 み? とネコが鳴く。
「…」
 史緒は歯を見せて笑った。


*  *  *


 ある日、和成が咲子の病室を訪れたとき、入れ違いで櫻が出てきた。
 学校の帰りらしく制服姿で学生鞄を持っていた。後ろ手で、がんっ、と乱暴に病室のドアを閉めた。そのまま蹴飛ばすんじゃないかと思うほどの勢いだった。
「…櫻?」
 突進してくる櫻は呼びかけが聞こえたらしく視線を上げる。しかしすぐに逸らした。舌打ちが聞こえた。無視するつもりらしく、スピードを緩めずに和成の横を過ぎる。その横顔は酷く青かった。
「おい、具合悪いのか?」
「…っ」
 息を吸う音が聞こえた。
 櫻は足を止め振り返り、和成が持っていた花束を無造作に掴んで思い切り床に投げつけた。
 花弁が舞い散り、2人の足下を花の色に染めた。
 ダンッ、大きな音を立て、櫻は花を踏みにじった。そして、
「───…ぁの、狸が…ッ」
 唾を吐くように言い捨てた。病室の中にいる咲子にも聞こえただろう。
「櫻…?」
 その行為を諫めるべきだったが、和成はその後の櫻の声に驚いていた。抑えきれない屈辱と憤りを噛んだような声だった。多分、そんな風に声を漏らしてしまうこと自体、屈辱だったのだろう、櫻は踵を返し、駈けて行ってしまった。
 和成は呆然として、その後ろ姿を見送った。
(狸…?)
(誰が?)


「いらっしゃい、和くん」
 咲子はいつも通りの笑顔で和成を迎えた。窓際のベッドで上体を起こし、お気に入りだという水色のカーディガンを肩に掛けていた。
「こんにちは、咲子さん」
「わ。どうしたの、お花」
 ぐちゃぐちゃになった花束を指さす。
「そこで落としちゃって…。ごめん、せっかくおじさんからのお見舞いなのに」
「気にしないで」優しく笑った。「本当はもう、お花はいらないの」
 いつものように咲子は手招きして和成に椅子を勧めた。
「政徳くんはあたしの一番欲しいものをくれた、だからもう何もいらないの」
「…一番欲しいもの、ってなに?」
「ふふふ」もうそれを手に入れていることの満足感からか、咲子は満面の笑みを浮かべた。
「子供達よ」
 咲子が答えたものは、和成が想像したどれとも違うものだった。

「和くん」
「ん?」
 咲子は顔を逸らして、小さく言った。
「…お花ごめんね、櫻のこと悪く思わないで」
「───」
(やっぱり聞こえてたのか)とぼけた振りして咲子も意外と腹黒い。
 狸が。と、廊下で会った櫻は口にしていた。花を踏みにじるほどに感情を乱す櫻と、咲子の間にどんなやりとりがあったのか。
 視線を戻した咲子の笑顔には隙が無く聞き返す余地を与えない強さがあった。
「和くんは大学を卒業したら政徳クンの会社に入るのよね」
 何事もなかったかのように話題を転じる咲子、ふぅと溜息をついて和成は答える。
「試験をパスすればね」
「史緒は怒ると思うな。司くんの件で政徳クンのこと嫌ってるから」
「覚悟しておきますよ」
「ねぇ───和くん」
「はい」
「子供たちのこと…ううん、史緒のことお願いね」
 わざわざ言い直した咲子の言葉に和成は首を傾げた。何となく面白かったので冷やかして返す。
「櫻はいいんですか?」
 咲子は真顔で答えた。
「櫻のことも心配だけど、あの子は大丈夫」
「どうしてそう思うんです?」
「さっきね、なぞなぞを出したから」
「なぞなぞ?」
「うふふ、そうよ、なぞなぞ」
 両手の指をあご先に合わせて咲子は無邪気に笑った。
「櫻はそのなぞなぞが『ある』か『ない』かで悩んでたの。頭の良い子だわ、薄々勘づいてたみたい。それってスリリングよね、そのなぞなぞが『ある』なら、その答えを探さなきゃいけない、反面、『ない』なら答えは探すだけ無駄なの。どんなことでも『ある』より『ない』を証明するほうがずっと難しい。答えを探し始めることが有用なのか無駄なのか、それを考えると動き出せないでいるのね」
 だからね、と咲子は続ける。
「だからさっき、“あるよ”って教えてあげたの」
 にっこりと幼い笑顔を和成に見せた。
「今までは『ある』か『ない』かで悩んでたことが、そのなぞなぞを『解く』に変わったのね。これから大変だわ、あの子」
 無邪気に笑う咲子に、和成は呆れたような吐息を返した。
「……意味不明なんだけど」
 注意深く耳を傾けていたが咲子の独白の意味を理解することはできなかった。
「ごめん。───でもね、櫻はその答えをどうしても知りたいの。それを見つけるまで、迷ったり不安になるだろうけど、苦しくても、でもあの子はきっと諦められない。だからそのなぞなぞを諦めない限り、前へ歩こうとする意志も手放すことができないの」
 くす、と咲子は口端で笑う。
「櫻を歩かせる為に、そのなぞなぞを用意したのよ? 狡いわね、あたし…───っ!」
 突然、咲子は目を細め顔をしかめた。和成は咄嗟に腰を上げた。
「大丈夫? 苦しいの?」
 差し伸べようとする手を、咲子は遮った。
「違う…」首を横に振る。「違うの、───違う…。和くん」「はい?」
「…っ」
 息を吸う顔が歪んだ。
「あたし、酷いことをしてる」
「咲子さん?」
「酷いことをしてると解っていても、黙ったまま死ぬわ。今、こんな風に和くんに吐き出しているのは…ほんと狡い、…あたしは、懺悔してるつもりなんだわ」
 和成から視線を外して遠い目で窓の外を見る。そこに何かあるわけじゃなかった。和成に聞き返しさせないための間をつくる仕草だ。けれどそこに見える眩しいほどの緑が咲子を引きつけた。その下を、子供たちが笑いながら駈けて行った。
 咲子の目に涙が滲む。
「あの子は可愛そう…っ」
「あの子?」
「櫻」
 と、短く息子の名を口にした。
「あの子をあんな風にしたのはあたしのせいだから」
「…」
「あたしは、あの子の為にできることはしたつもり。大丈夫、あの子は自分で歩けるわ。───だから、史緒をお願い」
 祈るように、膝の上で両手を組む。
「次に史緒を守ってくれる人が現れるから、それまでは、お願い」
 それは少し遠い未来、娘が出会うであろう恋人もしくは伴侶に願いを託すような台詞に聞こえなくもない。しかし。
(“史緒を守ってくれる人が現れるから”───?)
「まるで決まってるような言い方だね」
 和成が言うと、咲子ははにかむように笑った。
「だって、約束だもの」


 史緒が「咲子さんに会いたい」とせがむので、その度に和成は史緒を咲子の療養所へ連れて行った。
 大抵は咲子は2人を快く迎え入れた。感情の抑揚が弱い娘にそれを正すことはせず、絶えず明るい笑顔を向け、楽しい話を聞かせた。史緒は時折はにかむように笑った。
 しかし面会を断られる日もあった。
「急な検査が入って…」
 と、看護婦は申し訳なさそうに説明した。そんな日は2人はそのまま家へ帰るのだった。
 ───しかし和成は知っている。
 咲子の容体は子供達が思っているよりずっと悪いのだ。
 少し朦朧とする時があるのが怖いと、咲子は困ったように笑った。
 熱が38℃を下回らないのだという。高熱で涙がおさまらなかった。それでも笑っていた。
 吐血が止まらない。流動食しか食べられない。拳を握る力もない。
 頭痛は、ガンガンと鳴り響く痛みではなく、
「なんかね、空っぽになっていく感じ。頭が干からびていくような痛みなの」
 呼吸が苦しいらしい。呼吸器は嫌いだと言ったけど、それがあれば咳はおさまるらしい。
 ───子供達と面会する日は、奇跡的に体調が安定している日なのだ。

8/13
/GM/31-40/34