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 國枝藤子は桐生院由眞のところで会ったよく分からない人物だ。
 史緒の記憶が確かなら、史緒は藤子に名乗ってない。にも関わらず、図書館で名指しされたということは、藤子はどこから史緒の名前を知り得たのだろう。当然、一番可能性が高いのは桐生院だが、史緒たちの知らないところで史緒たちのことが藤子に伝わるのはフェアで無い気がする。それでなくとも、試験を受けた際に桐生院にあずけた情報は、住所氏名年齢学歴その他家族構成やその職業にまで渡るのだ。それが気安く藤子に流れるのは喜ばしいことではない。
「由眞さんが教えてくれるわけないじゃん」
 と、藤子は駅までの道すがら肩をすくめた。桐生院のところで初めて会ったときファー付きの白いダッフルコートを着ていた藤子だが、今日は赤い。派手なことに変わりは無いが印象がまるで違うので、図書館で声をかけられたとき史緒はすぐに気付かなかった。
「自分で調べたんだよ」
 史緒は藤子と並んで駅までの道を歩く。平日だが春休みということもあって歩道を歩く若者は多い。そういえば史緒は今まで同年代の人間と肩を並べて歩くことなど無かった。そのことに気付いて藤子との出会いを不思議に思ったりする。
「調べた…って、どうやって?」
「あらま。阿達さんって、葉子さんの裏の仕事のこと知ってるんでしょ?」
「裏…? って、副業でしょ?」
「まぁ、いいけど。そういう情報屋さんたちがちょっと動けば、阿達さんの名前や身元なんてすぐ判るよ。阿達さんはそういう仕事をしようとしてるんじゃないの?」
 そういう仕事、というのはまだよく判らない。桐生院由眞は「業種は情報産業」と言ったが、具体的にどういうものか知らされていないし、また、想像もできない。さっき藤子が「調べた」と言った史緒の名前(だけじゃないかもしれない)、それを情報屋に調べさせたのなら藤子は金を払ったはずだ。需要と供給が重なることでそこに取引が成立するのは解る。けれどそんなものを金を出してまで欲しい人間がそういるとは思わない。史緒はその業界が存在する価値を未だに理解できずにいた。
 そんな業界に史緒は飛び込もうとしている。けれど桐生院のところへ行ったのは、その業界で働きたかったからじゃない。
(単に、家から出たかっただけだ)
 本当にやっていけるのかな、と今更ながら───父親に啖呵を切ってから、はじめて不安になった。
 櫻はもういないのだから、あの家で怯える必要は無い。櫻がいなくなった世界は空気の色が変わったような気がした。視界が広がった。そんな場所で、部屋でひとり考えていたときに頭を持ち上げたのが自立願望だったというわけだ。史緒はそう自己を分析する。
 やるしかない。今更尻込みする気は毛頭無いのだが、それでも、一人家を出て、よく解らない業界で果たして働いていけるのだろうか、不安が無いとは言えない。
「え…、ひとりでやるつもりなの?」
 びっくりしたように藤子は丸い目を向ける。
「うん?」
「ばかもの」
 と、細い目が睨む。「…は?」
 藤子は足を止め、さらに史緒をも止めさせた。
「いや、そればか。まじでばか。慎重そうに見えて、意外と何も考えてないのね」
「國枝さん…?」
「人間、自分だけを守ることには、慎重になれないものよ」
「?」
「そりゃ、ひとりならイイ仕事ができるでしょーよ。自分で仕事受けて、自分で仕事こなして、失敗しても自分のせい、功績は自分のもの、報酬は独り占め。気楽よね。思い切った決断も気楽、失敗しても気楽、客の信頼失くすのも気楽」
「…」
「仕事をこなすこと。それは当然のことだけど、同じように仕事を継続させること、コレもちょー大事。ひとりでやるのは楽だよ、でも組織を存続させようって意気や粘り強さは、仲間がいる場合より格段に落ちるものなの。他人に責任を預け、他人の責任を預かる、切磋琢磨ってやつ。息の長い組織はそういうもんよ。ひとりで何かできるって勘違いしてるなら断って。由眞さんの足ひっぱらないでね」
 史緒は何も返せない。そんな史緒を見て藤子は僅かに表情を崩す。
「…と、まぁ、そんな心情的なことだけじゃなくてさ。事務所を構えるわけじゃん? 阿達さんが出掛けてるときに、新たな客が事務所に来たら誰が対応するの? そういう根本的なところのシミュレーションができてないんじゃない?」
 そこまで言って気が済んだのか、藤子は止めていた足を動かし始めた。史緒もその後に続く。
「國枝さんは、何人でやってるの?」
 史緒が訊くと藤子はあっさりと、
「あたしは一人」
 と、答えた。史緒は呆れて肩を落とす。
「…言ってることと違うじゃない」
「だって、あたしのは、スポーツの個人競技みたいなもんだもん。仕事してるときの味方は誰もいないの。そっちとは根本的に違うんだよ」
 そういえば、と史緒は桐生院の部屋でのことを思い出した。的場文隆や御園真琴は史緒と同じ立場のようだが、藤子だけは最初から違った。恐らくネットのあの試験は受けていないだろう、既に仕事をしているようだし、桐生院とも知り合いだった。
「さっきも言ったけどね? 由眞さんの邪魔はしないでね。そんなことしたら、あたしが殴るぞ、グーでっ」
 おどけた調子でこぶしを振る。その様子に史緒が苦笑すると、だいたいねぇ、と藤子は真っ直ぐに進行方向に顔を向けた。
「新聞読んで、外に出て、世の中のからくりを理解して、その中からピンとくるものが見つからない人間は商売は無理。絶対」
「……」
 史緒はその横顔を眺めた。
 多分、それは間違ってないのだろう。引き篭もりをしていた史緒には「外に出て」のくだりは耳が痛い。でも、藤子の台詞は史緒に向けられたものではなかった。皮肉でもない。
「ねぇ、國枝さんの仕事って───…」
「あ! バスが来たっ」
 そう叫ぶと同時に目と鼻の先のバス停へ走り出す。
「…え、ちょっと」
 つられて史緒も走る。史緒が藤子に追いつく前にバスは定位置に滑り込んだ。ぷしゅーと軽い音を立てて扉が開き、藤子はステップに足をかける。振り向いて、ようやく追いついた史緒に手を振った。
「じゃあね、また来週、由眞さんのトコで会おうね」
 史緒は息が切れて返事を返せない。藤子は手摺りに手をかけてさらに一段ステップを上ったところでもう一度振り返った。
「一度言ってみたかったんだ。ねぇ、“職業はなに?”って訊いて」
「は?」
「ほら、早くぅ。バスが出ちゃう」
「……“職業はなに”?」
 藤子は笑った。
「殺し屋ですのよ」
「───」
 ぷしゅー、とバスのドアが閉まった。
 史緒は何も言い返せないままバスは走り出す。
 ようやく声を発し掛けるがもう遅い。藤子は窓から手を振っていた。
 ひとりバス停に残された史緒は呆然とその場に立ちつくした。

(…冗談、なの?)
 あたりまえだ。
 それが冗談ではなかったら、一体なんだというのだろう。

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