キ/GM/31-40/38
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10.和成と史緒
その日、部屋に戻るとネコが死(し)んでいた。
時間は夜8時を過ぎている。当然、室内は暗かったので、史緒はまず照明を点けた。見慣れた部屋、ベッドの上でネコが丸くなっていた。
音も無く酸素が冷たくなった。
(───っ)
突然、引っ掻かれたような痛みが胸を刺し、息を飲む。(───あぁ)
史緒は直感的に、ネコが息をしていないことが解った。
どうしてか、それをすぐに飲み込むことができた。
その直感を否定する声は、頭の中のどこを探しても出てこない。
「そいつはもうすぐ死ぬよ」
予感は、あったのだ。
史緒は放心したようにそこから動けなかった。ほんの少しの空気の流れに肩を押されて、とすん、とその場に膝をつく。
ネコは死んだのだ。
ようやく老衰という言葉が頭に浮かんだ。
「ぅ…」
ずん、と圧倒的な重量をもって頭に降るものがあった。喘ぎそうになる。(だめだ)隣の部屋には司がいる。史緒は無理矢理に口を塞ぐんだ。痛いほど歯を食いしばって、感情の波が収まるのを待つ。
(もぉやだ)
「た…」
呟きそうになる言葉を飲み込んだ。それを口にすることはできない。
(お願い、早く収まって)
頭を抱えて祈った甲斐あって、脳天まで満タンになりそうだった感情の波は喉のあたりで一度退き始めた。けれど、すぐに戻ってくる気配がある。
突然、史緒は立ち上がった。部屋のドアを開け、廊下に飛び出した。
「七瀬くん! 私、出かけてくる」
隣の部屋に声を投げて、階段を駆け下りる。
「史緒? こんな時間にどこ───」
司がわざわざ部屋から出てきたが、それを無視して玄関を飛び出した。
ネコの亡骸を抱いたまま。
どれくらい走っただろう。史緒は無我夢中で暗い夜道を走った。何も考えられなかった。思考はその役目を放棄し、あらゆる感情を受け入れず、神経は足を動かすためだけに働いた。
家からはかなり離れた。人通りが多い、もう駅が近いだろう。史緒は全力疾走のまま、大通り側の公衆電話ボックスに駆け込んだ。そして受話器を取る。
「…はぁ、…は、ぁ」
慣れない運動に心臓と足が悲鳴をあげている。しかしそれ以上に胸を占める痛みがあった。
(守るって決めたのに)
歯の根が鳴りやまない。温かさを失った毛並みに手をやると、そこから絶望が流れ込んでくるようだった。
史緒は膝から崩れ、電話ボックスの中で座り込んだ。
(ネコ───…)
よく判らない感情のせいで泣きそうになる。歯列から漏れそうになる声。膝の上にネコを置いたまま、史緒は右手で顔を覆った。───そして左手が握る受話器から声がする。
「はい、もしもし」
びくっと史緒の肩が揺れる。漏らしそうになった声は理性を総動員して飲み込んだ。
(…え? どうして?)
その相手の番号を押した覚えはない。史緒は愕然とした。無意識にかけていたのだ。
(なにしてるの、私)
「もしもし?」
左耳を掠める、よく知る声。
(一条さんにかけて、…なにを)
一条和成に何を訴えようとしたのだろう。
「もしもし? どちらさまですか」
和成の声に微かな苛立ちが含まれ、史緒は慌てて声を返した。
「ごめんなさいっ」
「え? 史緒? …さん?」
「あの、ごめん…なさい。なにも、ありません。…間違い電話。本当に、ごめん。切りますね?」
「待って! こんな時間にどうしたの? 今、家? マキさんと司くんは?」
「切りますね」
「史緒!」
「…っ」
和成の強い声に揺れた。史緒は溢れてくる激情を抑えようと、歯を食いしばる。
ネコを拾ったのは8年前のことで、雨の日だった。
『この猫は、ここにいたらあと1日も経たずに死ぬけど』
まだ学生だった彼が言った。
『何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる』
(───っ)
史緒は歯を食いしばり、冷たくなったネコを抱きしめた。
(私は強くなれた?)
(あの日、死なせてしまうより、ネコは幸せだっただろうか)
(ネコがいなかったら、私は耐えられなかった)
(どうしよう───…悲しい)
悲しいという名の感情を史緒は理解した。
この空虚感。
淋しいとは明らかに違う喪失感。
(悲しい)
口にするのは辛い。でも言えばほんの少し楽になれると、史緒は知っていた。
「ネコが、死んだの」
受話器の向こうで息を飲む音がした。
和成に電話をかけてから3時間後。史緒はベッドの上で目を覚ました。
(あったかい)
まずそう思うほど、毛布が温かかった。強ばる身体を溶かすような熱が表面から伝わってくる。
部屋は薄暗い。どこかで照明が点っているのだろうが、天井のそれで無いことは見てとれた。視線を巡らすと、反対側の壁にある机の上でスタンドが煌々と光っていた。それが逆光となって、人影が浮かび上がる。和成だった。机の上のパソコンに向かっているようだった。背中の向こう側からカタカタという音が聞こえてくる。静かな部屋の中にそれはよく響いた。思いの外それは心地良く、史緒はそっと目を閉じた。
公衆電話ボックスの中で座り込んでいると、和成はすぐに飛んできた。史緒は無言でそれを迎え、促されるまま、重い足取りで車に乗り込んだ。和成はそのまま車を走らせ、阿達咲子が眠る霊園まで連れてくると、その片隅にネコを埋めさせた。史緒は長いことその場を動かなかったけれど、やがて史緒が踵を返すまで、和成は待っていてくれた。その帰りの車の中で史緒は目を閉じた。
そして和成のマンション、今、彼は仕事中なのだろう。キーボードを叩く音だけが部屋に響いている。薄暗い部屋の中、浮かび上がる背中を長い間見ていたらなんとなく泣けてきた。じわりと涙が滲んでシーツに流れ落ちる。
(いつ、声を殺して泣くことを覚えたんだろう)
(昔はよく大声で泣いてた)
(喚き散らす汚い声を聞いた周囲がどう思うかなんて、考えもせずに)
(傲慢に、悲鳴を撒き散らしてた)
いつもそれをなだめてくれていたのは和成だ。
幼い頃は、すぐそこにある背中に手を伸ばせていた。声をかければ振り返ってくれると知っていた。今もそれは変わらない、けれど今、薄明かりのなか見える背中に史緒は手を伸ばさなかった。和成がアダチに入ったときから、それをやめたから。
和成は史緒を置いていった。それなら史緒は追いたくない。邪魔になるだけだろうし、置いていったということは望まれてないわけだから。───ネコも、史緒を置いていってしまった。全身全霊をもって守ろうとしたものさえ、いつかは離れてしまう。
ぎゅっと、毛布を身体に絡め取る。
(わかってる。私は何も、誰も引き留められない)
(私が守ろうと決めたものは、いつか、必ず離れることになる)
(それでも…、せめて)
「───っ」
毛布の中で見開く。頭に浮かんだ2人の人物を思った。「…っ」毛布を剥いだ。
「七瀬くん、一人になってる」
突然の高い声に和成は振り返った。ベッドの上で史緒は身を起こしていた。
「もう遅いよ、寝てたら?」
「今、何時? 私、七瀬くんに何も言わないで出てきちゃった、マキさんもいないし、心配してるかも」
ベッドから抜け出し、慌てて支度を始める史緒を和成はなだめた。
「司のところには篤志くんが行ってる、大丈夫だよ」
「…え? 篤志? なんで?」
不思議そうに目を向ける史緒を、和成はもう一度座らせた。
「司から連絡がいったらしいよ。2人にこっちの状況も伝えておいたから心配ない」
「そう…なんだ」
史緒は安心したように息を吐いた。
車で家に帰る途中、史緒が寝付いてしまった後、和成の携帯電話が鳴った。関谷篤志からだ。
「そっちに行ってないか?」
と。開口一番がこれだ。和成は面食らった。その台詞の主語は訊くまでもない。
話を辿ると、史緒が帰って来ないと司が篤志に連絡したらしい。そのまま篤志は和成に電話した。ほぼストレートで史緒の居場所を掴んだ篤志には感嘆する。
昔、和成は篤志のことを史緒の母親のようだと評したことがあるが、それ以上かもしれない。
(母親みたい、か)
和成は苦笑した。そう考えると確かに篤志は、阿達咲子ができなかったことを代わりにやっているようにも見える。娘を心配し、窘め、叱ったり、誉めたり、教えたり───。
しかし、と和成は笑みをしまう。
篤志と初めて会った日のことを思い出す。それは咲子の葬儀の日だった。篤志は名乗るより先に和成にこう言ったのだ。
「あんたはもう手を引いていい」
──何から?
その答えを和成はもう解っていた。けれどそれは新たな疑問を生んだ。
篤志は何者なのかと。
誰の意志を継ぐ者なのかと。
* * *
(もうなにも、だれも失いたくないの───)
片腕を落としてしまったような喪失感も、纏(まと)い覆(おお)われるような悲しみも、もう味わいたくはない。
ネコはずっと傍にいてくれた。だから、あの家の中でも息ができた。櫻の気配に凍り付いたときも、腕の中のネコの温かさに自分を励ますことができた。
ネコはここにいて幸せだっただろうか。何かしてあげられただろうか。縛り付けてなかっただろうか。ねぇ、どう思ってた? ネコの本心など解るはずもないのに問わずにはいられない。
(ありがとう)
一緒にいてくれてありがとう。いつも助けられていたよ? あの雨の日に出会えて良かった。ずっとそばにいてくれてありがとう。
(強くありたい)
こんな自分にも何か守ることができると、自己満足でもいい、自分にちからがあることを知りたい。
(それは一人じゃ実現できないんだ)
何かを守ることは、自分以外のものがあってはじめて成り立つ。
こんな自分勝手な願いを一人で叶えることができない、その矛盾に泣けてしまう。
(結局、ひとりじゃなにもできないんだ───)
…でもいいの?
彼らを巻き込んで。
自分勝手な行動に他人を巻き込んで。
私といて幸せ? 私は何かしてあげられる? 縛り付けてない?
───彼らはネコとは違う。訊いてみれば判るのに。
どうしてその答えを、こんなにも恐れているのだろう。
もう自分の世界でなにも失いたくない。
そんなワガママを、貫き通せるだろうか。
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