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12.文隆と真琴と藤子と史緒
桐生院由眞からの二度目の招集日。家を出てからずっと、史緒は國枝藤子のことを考えていた。
(殺し屋…?)
その意味を考える。
人を、殺す仕事。そのままの意味で取ればそうとしか読めない。他にどんな意味があるというのだろう。
史緒は首をひねった。
(けど…)
それは道徳観、宗教観、社会性、どれをとってもタブーな気がする。殺人を容認する思想や法律など、世界中を探しても無いだろう。
けれど、タブーとされているからには、確かにそれは存在する。この世に無いものはタブーにもならない。
そういえば、留学中、世話になった教師がこんなことを言っていた。
「神は殺人を容認している」
教師は怒っているわけでも悟っているわけでも無かった。しょうがない、とこぼした。
「もし神が許さないなら、それは存在さえしない」
生憎、史緒は神と呼ぶような崇拝の対象は持ち合わせていない。その話も片耳で聞いていただけの話題だ。ただ、ほとんどの文化がそれを禁止しているのは確かなようで、だから、それが仕事として存在できるのか、史緒は疑問だった。
───人を、殺す。
突如、ぐらり、と視界が揺れる。倒れて、アスファルトに額をぶつけ───そうになった。どうにか足を踏ん張ることができた。
史緒は青い顔で足下を見下ろした。
(何言ってるの)
(人殺し…?)
(それは私じゃないか)
忘れていたわけじゃない、それは絶対に違う。けど、ここ数週間のうちに、自分の中でそれほど重きを置かない記憶に変わってしまっていたことは否めない。
(後悔はしてない。それは嘘じゃない)
櫻がいたら、あの部屋から出られなかった。
史緒は泣きたくなった。───とても醜悪な言い訳をしていると自覚したからだった。
「あれっ、阿達さん。よく会うねぇ」
呑気な声が背後から掛けられた。
「…國枝さん」
「ども」
にかっと笑って挨拶してくる。黄色のPコートにそれに合わせたニット帽、相変わらず派手な恰好だ。
「これから由真さんのトコでしょ? 一緒に行こ」
強引に手を引かれて並んで歩き出した。桐生院のマンションまではあと10分は歩く。
「今日、むちゃくちゃ寒くない? もう4月になるってゆーのに、異常気象もここに極まれり、ってかーんじ。神様もねぇ、気候調整サボらないで欲しいよねぇ、まったく」
勝手にひとりで喋っている藤子。その台詞に引っかかるものがあり、史緒は聞き直した。
「神…?」
「ん?」
「ねぇ、この間言ってた……國枝さんの仕事って」
ああ、と藤子は手を叩いた後、人差し指を向けた。
「殺し屋ですのよってやつ? あれねぇ、せっかく演出決めたのに阿達さん解ってないでしょ? もしかしてフィクションは読まないタチ?」
「───冗談なの?」
憤り半分、安堵半分で史緒は息を吐く。
「仕事はマジです」
涼しい顔が答える。
「だから、ジョークだと思ってあたしとこうして喋ってるなら、その認識は改めたほうがいいよ」
夕暮れの町を背景に藤子は穏やかに笑った。それはとても深いもので、史緒は目を奪われる。
殺したことあるの? それを知ってしまうのは怖くて訊けなかった。何よりも「殺した」と口にすることが怖かった。
けれど不思議と藤子に対して怖いとは思わない。その人柄がそう思わせるのか、単に史緒が未だ理解に至ってないせいか。
「仕事…っていうからには、お金をもらってるのよね」
「だねぇ」
「商売として成り立つものかしら?」
「…冷静だね」
藤子からの視線に、史緒は正直に答えた。
「たぶん、まだ疑ってるからだと思う」
「妥当だね」
そう苦笑すると、藤子は「ん〜」と首を傾げてしばし考えていた。「阿達さんの言う“商売として成り立つか”っていうのは、収支が合うかどうかってこと?」
「ええ」
「それなら、合うよ。高いもん」
と、あっけらかんと答えられて史緒の背中に寒気が走った。一体、自分たちは何の話をしているのだ。
「しゃ…社会的に需要があるとは思えないんだけど」
そう言うと、藤子は喉の奥で笑った。
そして突然、
「あっ、あそこのお店のケーキおいしいの。後で一緒に行かない?」
と、道の向こう側のパーラーを指さした。
「由眞さんち来る時は必ず寄ってるんだ。もうね、無くてはならないってかんじ」
「…へぇ」
どう答えていいやら、適当な相づちを打つ。
「あとあたしね、こう見えても結構自炊するの。コンビニ弁当より、ぜったい、あたしが作ったほうがおいしい! 缶コーヒーよりウチで淹れたほうがおいしい! それなのに、コンビニっていっぱいあるよね。どうして営業が成り立つのか不思議」
「……便利だからじゃない?」
「それとね、ウチのマンション、大通りに面してるんだけど、夜中、トラックの騒音が酷いの。近所でも悪評買ってる。あんなトラック、全部止めさせちゃえばいいと思わない?」
「そう…だけど、流通は…必要でしょ」
「ウチの近所、24時間営業のスーパーがあるの。暇なときに、一日中そこにいたことがあるんだけど」
(…物好きな)
「定期的に同じものが運び込まれてきて、定期的に同じものが売れていくわけ。それを毎日繰り返えされてるかと思うと呆れちゃった」
「需要と供給の縮図ってこと?」
「殺しが罪とされるこの世の中で、どうして殺し屋なんて職業があるのかな」
「…?」
史緒は眉を顰めた。「…ぁ」
───やられた。
藤子を見るとこちらを向いて変わらない笑顔を見せていた。史緒は藤子の意図に最後まで気がつかなかった。
誘導尋問だったのだ。
ある仕事が成り立つ理由はひとつしかない───需要があるからだ。
必要とされているからだ。
呆然としている史緒に藤子は言った。
「阿達さんは潔癖なんだと思うなぁ」
「え…」
「ほら、見て。夕日がきれいだね」
ビルの間の赤い空を指さす。藤子の意図不明な話題変換に史緒は警戒した。さっきのような展開は嫌だった。しかしそれは杞憂で、藤子は赤い空を背に、史緒の潔癖さを語った。
「自分が見ている景色だけで社会が成り立ってるわけじゃないのにね」
と、苦笑する。
「例えば、阿達さんは人を殺したくないと思う。他人もそうであって欲しい。幸い、それは法的にも禁じられている。だからそれをする人はいない───んなわきゃ〜無いって」
「…」
「知り合いの刑事なんか、『警察(うち)はどんな時代も不況知らずで結構なこった』な〜んて達観してるしね」
「刑事に知り合い…? え? 刑事部に?」
「そりゃ、“刑事”だし」
「國枝さんの仕事のことは?」
「知ってる」
「どうして捕まらないの?」
「2課だから」
「…?」
「自分のテリトリーの事件しか興味を持たない人なの」
いい情報源にもなってる、と藤子は笑う。
警視庁刑事部捜査1課は殺人や強盗、誘拐の凶悪犯罪を担当する。2課は汚職や背任、選挙違反などの知能犯罪が担当となる。だから藤子の知人という刑事は、殺人犯の逮捕は仕事では無いと言っていることになる。
「世の中、そういうもんだよ」
「───」
これはちょっとショックだった。殺し屋と刑事の癒着など、史緒の想像の範疇ではない。
改めて藤子を見る。史緒と目が合うと藤子はにっこり笑いかけてきた。寒気がした。
桐生院由眞の傘下に下るということは、國枝藤子の仲間になるということだろうか。
(…ちょっと、それは)
違う、と史緒は思う。
これから始めようとしている仕事の詳細はまだ判らないけど、それが道徳倫理から外れた仕事だとは思わない。桐生院由眞もそのあたりに言及はしていないが、騙されているわけじゃないと思う。他の2人、的場と御園も、おそらく史緒と同じような認識だろう。
しかしそこに國枝藤子が加わると途端に色が変わる。藤子だけ色が違う。何故、桐生院は史緒たちを藤子と突き合わせたのだろう。
この殺し屋と「仲間」になるのだろうか。
「今更、迷うの?」
ぎくり、と史緒の肩が揺れる。藤子は相変わらず笑っている。けれど今は、さっきまでの人の良い笑みではなく、目を細めどこか冷めたような顔だった。
「…関谷篤志、七瀬司、だっけ?」
「なんで…っ」
「この間も言ったじゃない。カンタンに調べられるよ」
多分、史緒はまた騙されていたのだ。藤子の笑顔に。
今、史緒の頭の中では警報が鳴り続けている。この目の前の人物は危険だ。簡単に付き合っていい人種じゃない。だが藤子が危険であることはずっと変わってない。それなのに藤子が殺し屋だと名乗っても、それが嘘では無いと知らされても、今の今まで警報は鳴らなかった。それは一重に藤子の人懐っこい笑顔と藤子の仕事がうまく結びつけられなかったからではないか。こんな風に笑う人が、人を殺すはずないと思いこんでいたからではないか。史緒は冷や汗を掻く。
「結局、そのふたりを連れていくわけ? いいんじゃない? それで阿達さんがいい仕事できるなら安い犠牲じゃない」
「ちょっと…っ!」
「やぁだ、怖い顔しないで。ちょっとふざけただけ」
「…っ」
「ひとりでやるのは無謀だって言ったのはあたしだもん。阿達さんが仲間を連れてくるなら歓迎こそすれ異論は無いったら」
そう言いながらも藤子はさらに続けた。
「───優しい彼らはあなたについてきてくれたけど、迷惑だったんじゃないかとか、これでよかったのかとか、間違っていたんじゃないかとか、考えてない?」
心当たりがありすぎて、史緒は無意識に胸を掴んでいた。
「フラフラ迷ってばかり。阿達さんって基本ワガママでしょ? 自分に自信は無いけどプライド高いタイプ。好き嫌いはっきりしているのに、他人のことばっかり気にして。そのくせ他から向けられる気持ちには鈍感。いるいる、そういう人」
「…」
藤子が覗き込んでくる。
「怒った? ごめんね。でも褒めたんだよ」
そして人懐っこい笑顔を見せた。
「いざという局面で迷う人、あたしは好きだよ。悩んで、迷って、それからする決断には強い力があるから」
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