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2. 蘭と篤志
あの人が、篤志さんのお母様。
蘭は、最後まで彼女を見送っていた。
あれが、「関谷篤志」の───。
大通りに入り混雑してくると、篤志は手を繋いでくれた。蘭は嬉しくて口元が緩む。が、これはちまたの恋人同士のそれとは意味が違い、幼い子が迷子にならないようにという親心と同じ行為だと、蘭は解っている。それでも満足だった。
一歩先を歩く篤志の背中がある。手を伸ばせば届いてしまう。それだけのことをこんなにも嬉しく感じられるのは、その背中を探している時間がとても長かったからだ。すぐそこに彼の背中があって、それを見守ることができるなら、蘭にとってこれほど幸せなことはない。
もう二度と見失わないようにと、蘭は繋いだ手に力を込めた。
「篤志さん」
「ん?」
「いつまで、このままでいられますか?」
その問いに、篤志は振り向いて蘭を見た。目が合ってしまうと、篤志はまた前を見た。目を逸らしたのだ。
蘭は苦笑した。
「ごめんなさい。こういうこと言うから、あたしと2人きりになるの嫌なんですよね」
「別に、…嫌じゃないよ」
そう言っても、篤志はこちらを見ようとしない。でも繋いだ手は離れてない。離すもんか、と必死で付いていく。
「…蘭は、いつまでこのままでいたい?」
「いつまでも」
即答する蘭。はぁ、と篤志の溜息が聞こえた。呆れたのかもしれない。でも。
「でも、篤志さんはいつかは動くんでしょう?」
「さぁな。その理由は半分無くなったから」
「櫻さん、ですね」
「ああ」
篤志は振り返って蘭を見た。「───…でも櫻は、多分、まだ」
「え?」
振り返ってくれるとは思ってなかった蘭はびっくりして顔をあげると、言いかけたままの篤志がこちらを見ていた。口を閉じて笑う。
「なんでもないよ」
「篤志さん」
呼び掛けは笑いを含んでしまった。純粋な思い出し笑い。蘭はくすくすと声を抑えることができなかった。
「どうした?」
訝しい顔で篤志は視線を返してきた。それに応えて、
「司さん、最初の頃、篤志さんを警戒してましたよね」
「懐かしいな」
「ええ、急に思い出して」
「あいつもなぁ、人見知りってわけじゃないけど、信用できるか判然とするまでが大変なんだよな」
と、篤志が軽く息を吐いた。いいえ、と蘭は首を振る。
「違いますよ。司さんが篤志さんを警戒していたのは別の理由です」
「なに? 俺って、そんなに不審人物なのか?」
「はい」
「…否定するところだよ」
苦い顔をした篤志が振り返る。ふふふと笑いが込み上げる。
「だって、司さん言ってました」
「なんて?」
「篤志さんは櫻さんに似てるんですって」
そこで篤志は目を丸くした。
「司が? ってことは、外見じゃないよな」
「ですねぇ」
「性格が櫻に似てるって言われるのは、ちょっと…」
「性格ってわけでも、無いみたいですよ。あたしは篤志さんと櫻さんは似てないと思うので、どうとも言えないですけど」
「それで蘭はどう答えたんだ?」
篤志に問われずとも、蘭はそのときのことを思い出していた。
蘭が篤志と初めて会った日、その日の夜のこと。
空港近くのホテルに泊まっていた蘭のところに司から電話がかかってきた。彼はこう言った。「篤志は櫻に似てる。だからまだ、僕は篤志が怖い。蘭は一目惚れしたって言ったけど、本気?」と。
もちろん、本気だ。
「篤志さんは史緒さんを裏切りません。それだけはわかります。…って」
自信を込めて司に、そして今、篤志に答える。
「…それだけで司が納得したかよ」
「いいえ。時間が解決したってトコでしょうね」
「にしても、櫻と似てるから警戒されてたって……」篤志は苦笑する。ひでぇな、と小さく言った。
そしてわずかに遠い目を前に向ける。「櫻も、どうしてああだったのかな…」
あなたでも知らないんですか?
蘭はそう訊こうとして、やめた。それを「篤志」に訊くのは不自然だ。
代わりにまったく別のことを言った。
「ね、篤志さん」
「ん?」
「あたしの実家のすぐ近く、大きな欅の木があったんです」
「…」
「でも切られちゃいました。もう、ずっと前に」
蘭は篤志に笑いかけた。多分、篤志はこちらを見ないだろう。それでもそのことを篤志に知ってほしかった。
「そうか」
と、篤志は答えてくれた。わずかに目を伏せて。
欅を悼むように。
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