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3. 欅(けやき)
回廊のほうから派手な足音が近づいてきた。
部屋の中にいた2人の少年のうち、ひとりは何事かと顔を上げ、もうひとりは嫌悪感たっぷりの溜息を吐いた。
近づく足音はそのままドアの破壊音につながった。
ばたん!
現れたのは蓮流花だ。
「亨!」
ヒールの踵は危なげもなく床を打ち付け、流花は阿達亨に詰め寄った。
「蘭を見なかった!?」
「ううん。昼過ぎは見てないよ」
「本当に? 匿ってないでしょうねっ?」
20歳の流花は8つ年下の少年を仁王立ちで見下ろした。しかし亨は臆する様子も見せずゆっくり小首を傾げる。
「昼食のとき会ったきりだけど。何かあった?」
「それが」
と、流花が口を開いたとき、がんっ、と背後の机が鳴った。
椅子の上で本を読んでいた阿達櫻が机を蹴飛ばしたのだ。
「どうでもいいから、出て行け。うるさい」
「出て行くのはあんたよ! ここは私の家よ?」
櫻は亨と同じく流花の8つ下、その年齢差を侮ることができない相手だととうに理解しているので、流花はおとなげもなく本気で言い返した。
櫻は低く笑った。
「おまえの家じゃないだろうが」
「…っ」
「じーさんに言えよ、“阿達のヤツらを早く帰らせろ”ってさ」
「あら、お父様が招待したのは阿達のおじ様よ? 櫻じゃ」
「流花さん」
亨が割って入る。
「蘭がどうかしたの?」
「あ、そうだ」
蓮家の兄姉は末妹に甘い。櫻を無視してすぐに元の話題に戻った。
「昼から姿が見えないの」
「昼から、って……もう夕方の6時なんだけど」
「だから皆で探してるのよ。もうすぐ夕食よ? それまでに出てこなかったら父様にも知られて大騒ぎになるわ」
「いなくなる前、何かあった?」
「あ、うん。でもそれが原因とは思えないんだけど」
と、流花が言うには。
昼食の片づけが行われている厨房に忍び込んだ蘭が、一番上の兄のグラスを割ってしまったらしい。素直に謝りに行って、一段落した後から蘭の姿が見えないというのだ。
「そのときはすごく落ち込んでたみたいだけど、兄さんは怒らないですぐ許してくださっていたし」
そのとき、櫻がわざとらしく吹き出した。「ばーか」
「なんですって?」
「おい、櫻」と、亨が諫めた。そして流花にも言う。「流花さん、多分、それが原因だよ」
「え? どうして?」
「蘭は自分が叱られないことにコンプレックスあるから」
蓮家のきょうだいは13人いる。流花は2番目で、蘭は13番目だ。そしてその13番目の末妹は、他12人の兄姉から溺愛されていた。蘭はそれを自覚し喜んで受けとめていたようだが、甘やかされることにどこか戸惑っているようだった。
「きっとあそこだ」
亨の呟きに、流花が飛びついた。
「あそこ? あそこって、どこ?」
亨が答える前に櫻が、
「遠いんだからさっさと行け。他の連中がやかましくなる前に」
と、わずらわしそうに言った。
蓮蘭々が暮らす町には、大きなケヤキがあった。
高台に上れば、色とりどりの屋根の間から頭を出しているのが見える。
その傍へ足を向ければ、葉陰から差し込む光が見えた。
風に鳴り、そよぐ枝。幹の冷たさに額を押しあてる。
大気が澄んで、身体が融けてしまいそうだった。
蘭々はその欅が大好きだった。
今、蘭は幹元に座り、ぼんやりと遠い空を見ていた。オレンジ色の空は消えて、夕暮れの最期、紫色に明るい空が遠くに残っているだけだった。真上を仰ぐと、欅の枝がいっぱいに広がっている。日が落ちた後の町はずれのここは暗い。それでも不思議と怖くはなかった。不思議と落ち着いて、蘭は太い幹に耳を澄ました。
「やっぱり、ここにいた」
突然の人の声に蘭は飛び跳ねる。
「亨さん!」
走ってきたのか、亨は息を切らせていた。
「迎えに来たよ。帰ろう? 流花さんたちも心配してた」
「え…どうしてわかったのぉ?」
「ん? なにが?」
「あたしがここにいるって」
「なんとなく」ほら、と蘭の手を取った。「さぁ、帰ろう」
やんわりとケヤキから引き離されて、蘭は名残惜しみながらもその背中に付いていく。
兄のお気に入りを壊してしまった胸の痛みは、ケヤキに吸い取られていた。ありがとうと心の中で呟いて、蘭はケヤキに手を振る。
「ね、亨さん。あたしがここにいるって、すぐにわかった?」
「しつこいなぁ。そんなに不思議なことじゃないだろ」
「不思議ですよぉ」
「だって、蘭は、嬉しいことがあったり落ち込んだときによくここへ来るじゃないか」
亨は振り返って笑う。
「見てれば、わかるよ」
と、言った。
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