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 彼は机のスタンドの電気を点けた。古い論文を読むためである。
 彼はついさっきまで1階で夕食を食べていた。2時間ほど家族と団欒したのち、午後9時には2階の自室へさがる、それが彼の日課だった。自室ではテレビを見ることもあるし、アルコールを嗜むこともある。しかし今夜はこの論文を読んでしまわなければならない。彼は机の抽斗をあけて老眼鏡を取り出した。
 一週間前に職場に沸いて出た古い論文は、すぐに、彼と同年代の職員のあいだで注目の的となった。我も我もと人が集まり、いい大人が白熱したじゃんけん大会を繰り広げ、両手の人数ほどの回覧順序が決められた。───いまどき回覧などせずとも、コピーして配布したりデータ化してメールなりすればよいものの、彼らのような古い人間の多くはそれを好まない。遠い昔、学生の頃に参考書を奪い合い、それが回ってくるあいだ胸を躍らせて待っていた記憶がある。そのときの気持ちを、彼らはときどき再現させて楽しんでいるのだった。
 彼はどの論文を読むときもそうするように、著者名を確認した。論文はドイツの大学の研究チームによるもので英語で書かれている。最後のページを見ると、チームの構成は6人。そのうちのひとりが日本名のようだが彼には憶えのない名前だった。表紙に戻ってもういちど題名を読んだあと、彼は一枚目をめくった。
 ふっ、と手元の灯りが消えた。
 蛍光灯の余韻が残る。論文の紙の白さが吸収していた光を、刹那のあいだ残した。顔を上げると部屋の照明も落ちていた。どうやら停電らしい。
 窓からの明かりは薄く室内を照らす。彼は机を離れ、足を床に擦るようにして移動した。廊下へと続くドアを開けると家中が真っ暗だ。
「おい、どうした」
 階段下に声をかけると彼の妻の声が返った。
「停電みたいです。お父さんのほうは大丈夫ですか?」
「ああ」
「様子を見てきますので少し待っててください」
「ああ、気をつけてな」
 ぱたん、とドアを閉めて室内に戻る。ふと見ると、窓の外、近所はいつも通り灯りが点いていた。ということは電力会社による停電ではなく、ブレーカが落ちたのだろう。この家では珍しいことだ。彼は窓に寄って、窓を開けた。冷たくはないが湿った空気が家の中に入ってきた。
 やはり停電しているのはこの家だけのようだ。彼は窓から見える町内を見渡した。あの子がなにかやらかしたかな、と遊びに来ている甥を思う。
 彼の甥はもう大学生だが、幼い頃から可愛がっていたこともあり、つい子供扱いしてしまう。子供みたいなその呼び方はやめてくれとむくれる甥を思い出し、彼は笑った。背も追い越され、来年になれば成人もするのに、彼から見たら今でも幼い少年のようである。
 電気はまだ戻らない。ブレーカーが落ちているだけなら上げれば済むことだ。長すぎる停電に訝しみ男は窓から離れた。しかしその際、視界の端に動くものが映る。彼はぎょっとして振り返った。
 にょきっと、窓枠から白い腕が伸びてきた。
「…っ」
 声をあげる暇はなかった。暗闇のなかから現れた白い腕を見てオカルトが頭を過ぎる。それよりあと、彼が論理的な思考に辿り着くより先に、白い手は目の先まで近づき、彼の口を掴むように塞ぐ。
「!?」
 顎を掴まれて声を出すことができない。その手は紛れもなく生身の人間のものだった。口を塞ぐ手、腕を視線でたどると、次に窓枠から人間が侵入してきた。現実離れした現実に彼は自分の行動を選択できなかった。侵入者は全身黒い服を着ていた。窓からのわずかな灯りでしか確認できないが、若い女だ。細い腕、細い指にかかわらず、信じられない強い力で顎を掴まれている。
「こんばんは。殺し屋です」
 薄暗闇のなか、女は無邪気に笑った(殺し屋に邪気が無いとはどういうことだろう)。彼は目を見開く。かなり遅れて、体が大きく震えた。呆然としているあいだに口を塞がれたまま、先ほどまで座っていた椅子に座らせられた。そこで、初めて彼は抵抗することを思い出した。女の手を引き剥がそうとした。すると女はそれを阻止しようと右手で男の手首を掴む。
「うあ…ッ!」
 折れた。身体が軋むような痛みに彼は悲鳴をあげた。しかし口を塞がれているために、それも満足には響かなかった。
 彼が手を放すと女は右手で男の襟を掴み、そのまま切り裂いた。そのまま、むき出しになった男の左胸に触れ、指先で撫でる。ひんやりと冷たい指に彼の恐怖はさらに高まった。女は執拗に男の胸を探るように撫でる。彼はその意図を察し、暴れた。判ってしまった。彼は医者だったので。
 女は肋骨の位置を計っているのだ。
 鋭利なナイフなどで心臓を刺すのは意外と難しい。肋骨があるからだ。
 彼は1階から誰か来てくれないかと祈った。しかしその気配はない。
 やがて女はまるでマーキングするかのように、左胸の少し上のあたりを親指の爪でひっかいた。
「誰に依頼されたか知りたいですか?」
 そっと小さく囁く。彼は、殺さないでくれ、という意味で首を振った。
「じゃあ、もう、あなたの命が消えます。さようなら」
 見慣れたはずの自分の部屋に、黒い服を着た女の影が浮かび上がっている。これは現実じゃない、夢だ、夢だろう。
 女は一度背中に右手を回す。次にその右手が彼の視界に現れたとき、その手は銀色に光る刃物を持っていた。刃渡りは包丁ほど。まだなにもされていないのに、男は血液が逆流するのを感じた。寒くなり、痛くなった。

 どんっ
 酷いシャックリのようにそれは体内に響いた。
 わずかに視線を下ろすと、左胸のマークされた位置に女のこぶしが当たっている。こぶしは銀色の刃物を握っていた。
 腸が攣ったあと胃液が逆流するような感覚があり、異変を察知した肺が咳き込もうとする。すると口のなかに脳が溶けるような生臭い鉄の味が広がった。
「…ゴフっ」
 口を塞がれているので血を吐き出すことができない。女の力は強く、とくに親指は顎骨を砕きそうだった。おそらく女の指の間から、吐き出した血が滲み出ているだろう。もう声も出せないと解っているはずなのに、女は手を離さない。返り血を浴びないためだ。
 肩甲骨があるので身体に刃物を貫通させることは難しい(それ以前に、刀身はそこまで長くなかったようだが)。女はこぶしを強く当て続けているので何かと思えば、これも体外への出血をできる限り止めて、返り血を極力避けようとしているようだ。
 目が霞んできたとき、女の意気込む呼吸を聞いた。と同時に、彼は両目を剥く。
「ぎ」
 そのままナイフを90度回す。これは相当な力が必要なはずだが女は手首を捻るだけでやってのけた。
 肋骨が折れる音を、遠く、最後に聞いた気がした。


「伯父さん、どうしたのっ」
 彼が椅子ごと倒れた音を聞きつけたのか、彼の甥が階段を駆け上がってきた。
 彼の甥は見た。停電が解けない薄暗い部屋の、窓際に佇む人影。
「…誰だ?」
 女だ。目が合うと人影はひらひらと手を振って───飛び降りた。

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