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≪2/10≫
径(みち)のおわりには白い花が咲いている。
1.逢魔が時のあと
國枝藤子(くにえだとうこ)は黒い服を着て夜の街を走る。
夜の闇に紛れるとはいえ繁華街で地味な黒服というのは返って目立つものだ。藤子はできるだけ裏道を選び、人目につかないように街を駆け抜けた。人気を避けられない通りではうつむき加減で人と人のあいだをすり抜ける。移動距離はすでに3kmに達しているが速度はほとんど落ちていない。一度、腕時計に目を落としたほかは、よそ見もせず走り続けた。
私鉄の小さな駅はこの時間になるとほとんど人はいない。薄暗い駅に駆け込み、迷うことなくコインロッカーに鍵を差し込む。ロッカーの中には4点。薄茶のサマーセーターとフレーム無しの眼鏡と携帯電話とサイフ。セーターは仕事着を隠すため、眼鏡は変装用。サイフのなかにはあらかじめ買っておいた切符が入っている。それを抜き出しサイフはポケットにしまうと、ロッカーをしめた。切符を折ってしまったふりをしてそそくさと有人の改札を抜ける。ちょうどホームに電車が入ってきたところだった。
JRの駅で降りると走り抜けられないくらいの混雑があった。昼間ほどではないが会社帰りのサラリーマンや遊び帰りの若者がどこか疲れたように改札へと流れて行く。藤子時間を気にしながら人波を縫って階段を降りた。通路を横切ってそのまま構内のトイレに駆け込んだ。
鏡の前で化粧を直している10代の女がひとり。駆け込んだ藤子に見向きもせずアイメイクに集中している。女の横手にはボストンバッグが置かれていた。藤子は躊躇うことなく女の横のバッグを掴み取り、そのままトイレの個室に入った。都会の公衆トイレに入って最初にやることは隠しカメラが無いことの確認だ。手早くそれを済ませると、藤子は服を脱ぐ。ボストンバッグには藤子の自前の服が入っている。
着替えを終えて個室を出るとさっきの女はもういない。藤子はとくにそれを気にすることもなく鏡の前で身支度を確認した。白いカットソーにピンクのフレアスカート。ミュールを履いて、指輪以外のアクセサリーを身に付ける。ソープで念入りに手を洗ったあと、指輪をはめた。仕事着はボストンバッグに押し込み忘れ物がないことを確認すると、藤子は気持ちを切り替える儀式のように鏡の前で笑顔を確認した。今夜の仕事は終わり。いや、実際にはあと少し残っているけれど。
鏡の前で最終チェックを終えてトイレを出る。手荷物はボストンバッグと手提げバッグのみ。ゆっくりと歩き改札のほうへ向かうと、階段の手前でさっきの女が手を振っていた。藤子も笑顔で手を振り返す。
「やっちゃん、久しぶりー。テスト終わったんだ?」
「うん、とーこさんにはご贔屓にしてもらってるのに、勝手に休みもらってすみませんでした」
「いやいや、学生さんは学業第一だよ。気にしないで」
端から見ればこの2人は女子高生の待ち合わせに見えただろう。なかには、2人が同じような背格好、同じような髪型をしていることに気付いた人もいるかもしれない。だからといって、2人の関係を正確に当てられる者などいないだろうが。
2人は電車には乗らず、駅を出て並んで歩き始めた。にぎやかな通りに絶えず人通りがある喧騒のなかを歩いて行った。
「はい。過去2時間の行動範囲と録音MDとレシート」
「ありがとー。助かるよ」
「仕事だもん。お礼は不要」
藤子はレポート用紙一枚程度のメモを歩きながら20秒かけて読んだあと、ライターで燃やした。燃えかすがアスファルトの上に落ち、それを踏みつけた。MDのほうも聞いた後にもちろん処分する。
「あとね、単行本も買ったの、新刊出てたから。とーこさんの趣味に合わせたつもりだけど、これでよかった?」
「うん、おっけ」
藤子はタイトルを確認して頷く。少しだけ表情を改めて先を促した。
「じゃ、やっちゃんの所感を聞かせてくれる?」
「はーい。えーと、まず、予定してたライヴは整理券が取れなくて入れませんでしたー。トリが“Missing Kisses”だから予想以上の客入りだったみたい。私の他にも門前払いされた人、5人いたし。しょうがないから街中をテキトーにぶらついて、あっと、MDにも入ってるけど、J町の交差点、今日から夜間工事やってるの。うるさくてみんな文句言ってた。街頭VTRでASDFの新曲プロモ流れたよ、周りの女の子が騒いでたけど、私はあまり趣味じゃないな。このあたりでナンパ2名撃退、人相はMDに入れたから聞いて。夕食はデニーズ、メニュー取りは石焼さん。50歳くらいの髭のおじさん、名前が珍しいから覚えてたんだ、ネームプレートの肩書きは副店長だって。食べたものはレシート確認してね。食べてるときさっきの単行本読んでたらハマっちゃって、結局、10時過ぎまでいたから夜間料金取られちゃった。それから〜、帰りは、駅で路上パフォーマンスの集団がいたよ。高校生の男の子、ストリートダンサー。曲がクラシック使っててミスマッチが面白かった。こんなところかな。あとはMD聴いてください」
一気に喋る女の説明を聞き漏らすまいと、藤子は口を挟まずに聞いていた。
「…うん、ありがとう! やっぱ、やっちゃんだな〜」
「えー、なんですか」
「やっちゃんがテスト休みのあいだ別の人だったんだけど、風貌合わないうえに、仕事意識薄くて。いくらバイトでもあーいうお遊び感覚のコは困るな」
「とーこさん、店長にも言ったでしょ、それ」
「言った。だって本当に困るもん」
「干されてたよ、その子」
「仕事はやっ。店長のそういうところ好き」
「あはは。私も、とーこさんの仕事のときは、かわいい服着れて楽しいから好き」
「それはよかった」
「あ、もちろん、お金をもらう以上は責任もってまじめにやります」
「うん、やっちゃんの仕事は信用してる」
「ねぇねぇ、とーこさんって何の仕事してるの?」
「それは聞かない約束って、店長に教わらなかった?」
「そうだけど。だって、とーこさんて、あたしと同じくらいでしょ?」
「さあ」
「って、自分の歳じゃん」
「うん、でも、あたしは数えることやめたから」
2人はまた元の駅に戻ってきている。さりげなく密談するために近場を一周しただけだった。
「じゃ、やっちゃん。気をつけて帰ってね」
「うん、とーこさんも」
手を振ってわかれた。
時間は夜11時を回った。
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