キ/GM/41-50/41
≪3/10≫
2.模型風景のはじまり
やっと見つけた
刺すような光とともに、その人は現れた。
* * *
格子の影が移動する周期を「一日」という。
床にその影が見えるあいだは「昼」、見えないあいだは「夜」。遠くで鐘が鳴ると「一時間」。「一時間」は足音100を40回ぶん。食事を与えられない日がくると「七日」。土塀の湿気と藁敷の床の冷たさが反対にあって「半年」。一巡すると「一年」。
それだけを数えていた。
数える以外、考えることをやめた。
黴臭い壁にもたれ、固い床の上で、膝を抱えて座る。膝を抱えて眠った。
ときどき「仕事」に呼ばれた。刃物を持たされ、町に放たれる。安定した時間の流れのなかで、「仕事」だけが動的な活動だった。少しでも遅れると殴られたので呼ばれたときすぐに立てるように、横になって眠ることは習慣から消えた。
数えているだけの「毎日」のあいだに髪が伸びること、爪が伸びること、襤褸(ぼろ)を羽織る手足が少しずつ伸びていくこと。それはすべて数えている「時間」の経過の具現に過ぎない。積まれていく「時間」がなにを意味するのか、どうしてここにいるのか、自分は誰なのか、どこにいたはずなのか、なにをしているのか。考えることはやめた。必死で考えることをやめた。胸に絡まる言い知れない不安のむこうに、辛さや寂しさを見つけてしまわないように。
近づく足音がした。
(しごと…)
条件反射で立ち上がり、重い足を戸へ向ける。薄い木の戸に手をかけるより先に、戸は外側に開いた。
キィ、と音を立てた。
「やっと見つけたわ」
「───」
刺すような光とともに、その人は現れた。いつも呼びにくる人間とは違う。服装も言葉も、向けられる表情も。
光は脳裏を焦がすほどで思わず手を翳した。
4秒後に体勢を戻したとき、さらに鋭い視線に射抜かれた。その痛みに息を呑んだほど。
11秒後、それはふっと優しい笑顔に変わった。笑顔を笑顔と認識したのは本当に久しぶりのような気がする。
「…(だれ?)」
「私は桐生院由眞(きりゅういんゆま)。あなたを探していたの」
「(どうして?)」
「私の息子の子だから」
「…?」
「ここの連中と話は付いるわ。さっさと帰りましょう、日本へ」
そう言って差し伸べられた細く白い手の先には、しなやかな指がすらりと伸びていた。
その数は5本だったけれど───もう、数えることは忘れていた。
10ヶ月後───
藤子はマンションの一室から、窓の外に広がる都心の景色を眺めていた。
すぐ下には幅の広い川がゆっくりと流れている。ビルのあいだを太くゆるやかに南へと流れる。そしてこの窓からは海も見える。川が流れ着く場所だ。キレイとは言えない色の海、海を埋め立てて建てた港。誉めるような景観ではないが藤子は好きだ。コンクリートカラーの建造物と赤いクレーンが並ぶ倉庫街の景色はどこか乾いている。その乾燥感が好きなのだ。
地球上のすべての川は海へ繋がるらしい。
狭いこの国の地形では川の長さなどたかが知れている。それでもどこか高地で生まれたひとしずくが、さまざまな風景のなかを漂ってくる。いつ辿り着くかわからないまま、海という終着点を目指して。
視線を上げると遠く都心のビル群が見えた。その隙間に夕日が堕ちていく時間。西日が港を照らし、この時間だけは海も赤く染まった。
とても短い一日がまた終わる。
(やっぱり、だめ、か)
「由眞さん」
窓の外を眺めたまま、藤子はぽつりと呟く。
ここは由眞のオフィス。東京は晴海、川沿いのマンション。すぐそこに東京湾が見える。藤子は放課後になると制服のままここへ訪れて、窓から景色を見ていることがよくあった。
「なぁに?」
デスクで仕事をしていたはずの由眞はすぐに声を返してくれた。キーボードの音は絶えず聞こえてくる。
「あたし、働く」
「学校はもう飽きた?」
「ううん。ただ、なんか違うなって」
「そう。で、なにをするの?」
「前と同じ仕事」
少し遅れてキーボードの音が止まった。
藤子は沈む夕日を見続けている。
初めて「仕事」をした日のことを、今でも覚えているよ。
長く続く径(みち)を見つけたの。それを境に生きることが少しだけ楽になった。
今から歩くその径がどう終わるのか、同時に解ってしまったから。
この生は大海を目指す川の流れと同じ。
終わりへと向かわなきゃいけない。そのためには、居心地の良い教室で、気の良い友人達と歩幅を合わせているわけにはいかなかった。
目の前の径(みち)を無視できなかった。その先からなにかが呼んでいるみたい、惹かれてたまらない。径がどうやって終わるのかももう知っている。それを見るために行かなきゃいけない。歩かなきゃいけない。歩いて、終わりへと向かわなきゃいけない。
この日だまりの空気のなかを。
長く遠い、孤独な道程を。
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