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6.Killer and Angel

 桐生院由眞は取引先の会長婦人に招待された会食に出かけるところだった。午前11時、マンションの前に停められた車のリアシートに落ち着く。時間は少し押していた。会場への到着はギリギリだろう。といっても、この先の時間配分は運転手と秘書の仕事だ。由眞は今日のような退屈な催しをいかに有益な仕事に繋げるかを考えればいい。
 秘書が外からドアを閉めようとしたときのことだった。
「あ、待って待って! 由眞さん!」
 覚えのある声を聞いて、由眞はちらりとサイドミラーに目をやった。國枝藤子が歩道を走ってくるのが見える。
「由眞さん!」
 走ってきたままの勢いで藤子はリアシートに上体を乗り込ませてきた。由眞は視線を前に向けたまま言う。
「今日は時間がないの。急用なら乗りなさい」
「すぐ済むから! ね、この前言ったでしょ? あたしのカレシ」
 そこで初めて由眞は藤子のほうを見た。少し遅れて歩いてくる青年の姿があった。
「…あぁ。北田くんね」
「由眞さんに紹介したくて。あたしとお付き合いしてる晴ちゃんです」
 由眞は秘書にひとこと添えて車を降りた。無愛想な青年が藤子のとなりに立つ。その腕に両手を回してはしゃいでいる藤子。その若いカップルを前にして由眞は溜め息を吐いた。
「はじめまして。桐生院由眞です」
「北田、千晴です」
 挨拶を返すくらいの愛想はあるようだ。
「藤子と付き合ってるの?」
「そのようです」
「物好きね」
「同感です」
 淡々と答える北田に由眞は眉を顰めた。
「適当なところで手を引きなさい。あなたの貴重な時間が無駄になるだけよ」
 北田は態度を崩さない。
「復讐とはもともと無駄なものでは?」
「…そうね」由眞は目をそらすように視線を隣りにずらす。「あなたの行動を制限する気はないけれど、他人を巻き込むのは感心しないわ。北田くんにだって危険は付くのよ?」
 藤子はいつもの調子で笑う。
「だいじょうぶ。晴ちゃんには手を出させない」
「藤子」
「ごめんなさい、由眞さん」
 謝る藤子に踵を返して由眞は車に乗り込んだ。「北田くん、いいわね、年寄りの忠告は聞くものよ」
 運転手に車を出すように指示する。ドアが閉まり、すぐに車は走り始めた。
 ミラーを覗くとふたりは由眞の車を見送っていた。藤子は笑いながら手を振っている。
 その歪んだ恋人たちを見て、もう一度深い溜め息を吐いた。
(私では、無理)
(好きな人ができても、それでも駄目なのね……)
 由眞は真剣に憂う。
(一体、なにが、あの子を変えてくれるかしら───?)






 藤子は自分名義の住まいを3つ持っている。毎日帰って寝泊まりしている部屋はそのうちのひとつだ。
 1DKの部屋の内装は藤子の趣味を色濃く反映している。壁紙は白だがそれ以外はピンクとオレンジが基調。一番大きな家具はベッドで、そのカバーもピンク地に大きな薔薇が刺繍されている。
 しかし、そのベッドは一度も使われたことがなかった。
 藤子は横になって眠る習慣がない。
 一日の睡眠時間は3時間を切る。かといって、眠る暇がないわけではない。睡眠という無防備な状況に身体が長時間耐えられずに、自然と目が覚めてしまうのだ。寝るときはいつも、ベッドの横で、膝を抱えて、毛布を肩にかけて眠る。由眞と会う前の習慣がそのまま残っていた。藤子がベッドで眠るのは北田千晴の部屋に泊まるときだけだ。
 はじめて千晴の部屋に泊まった夜、「横になって眠るなんて、10年ぶりくらいだよ」と言ったら千晴は目を丸くしていた。
 今日も、毛布をかぶりベッドの横で膝を抱えて眠る。暗闇のなかで藤子はそうやって朝を待つ。冷蔵庫の音と時計の音だけが、夜の静かな空気を揺らしていた。
 ふと、藤子は気配を感じて顔を上げた。もちろんそこにはなにもない。誰もいない。けれど藤子は暗闇を見つめて薄く笑う。
「また、天使さんか」
 囁いた声が空気を揺らす。
「どうしてあたしのとこに来るの?」
 答える声はない。
「あたしの死期が、近いのかな? ───あっと、ごめん、睨まないで。そうだよね、天使さんと初めて会ったのはずっと前だもんね」
 そう言うと藤子は笑みをしまい、ふと視線を逸らした。
「ねぇ、天使さん。お願いがあるんだ」
 もとの暗闇に向かって語りかける。
「もう来ないで。…あたしは、夜、部屋にひとりでいるときにまで、他人に気を遣えるほどオトナじゃないから。かといって、天使さんを無視できるほど図太くもないし。だから、もう、来ないで。ごめんね」
 でも、と藤子は続ける。
「あたしの最期のときは、もう一度だけ姿を見せてほしいな。迎えに来るのは死神だろうけど、天使さんにも、お別れを言いたいから」



 ねぇ。初めて「仕事」をした日に誓ってしまったんだ。
 人を殺したあたしは人に殺される。この径はそうやって終わるの。
 じゃあ、終えるために「この径を歩き続けよう」。
 この径を歩き続けて、「この径を終わらせよう」。

 そのときの強い誓いに、今も脅迫されてるんだ。
 別の径を歩くことも、歩みを止めることも許してくれないの。
 変えられないの。あたしはこのまま生きるしかないの。
 ねぇ。でもちっとも嫌じゃないんだ。
 清々しいほどの諦観は、胸に染み入る幸福感ととてもよく似ているから。



 藤子は膝に顔を埋(うず)めた。
 とても短い一日を始めるためには、この永い夜を越えなければならない。

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