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13.12/25(土)06時40分

 史緒はホテルの部屋の電話から、外線104(無料電話案内)でワビユノービルの住所を調べた。住所は東京都代々木。ここからいくらも離れていない。フロントからタクシーを呼んでもらい、10分後にエントランスにつけた車に史緒は乗り込んだ。
 住所と建物名称だけではたとえ土地鑑のあるタクシードライバーでも迷わずに着くというわけにはいかない。史緒は待っているあいだにフロントで地図を借りて目的地を確認していた。到着地の目安となる通りといくつかの施設を言うと、ドライバーは了解してアクセルを踏んだ。
「急いでください」
 史緒はそう伝えたが、早朝の薄暗いビジネス街には対向車さえいない。
(落ち着いて)
 考えなければならないことは山のようにある。
 まず、あのメールが誤報だという可能性は除外するべきだ。今、手にしている情報は他に無い。次の手を考えるのは、実際に確認した後でいい。
(屋上、って…どういうこと?)
 藤子が自発的にそこにいるのか、もしくは動けない理由があるのか。一人でいるのか、それとも他に誰かが? マンションに残された書き置きは筆跡を確認するまでもなく藤子のものだ。それに第三者が偽装するならもっと長文になるはずである。そのことから、たとえ強制させられたのだとしても、マンションを出てホテルに滞在したのは藤子自身の行動だ。チェックインは21日の夜、予定は24日まで。それなのに23日の夜にホテルへ戻らなかった。不測の事態であることは間違いない。
(メールを出したのは誰?)
 藤子の居場所を伝えるメールが藤子の携帯電話に届いた。メールの発信者は、藤子が携帯電話を持っていないと知っていることになる。メールのfromはそのままアドレスが表示されていた。アドレス帳に登録されていないということだが、元より藤子はアドレス帳を使わない。過去に藤子とやりとりのある相手かどうかは確認できない。
(…罠かもしれない)
(呼び出された?)
 けれど藤子の電話を史緒が持っていることは誰も知らないはずだ。それとも無差別か。
 そんなことを考えている間にタクシーは現場に着いた。
 ワビユノービルは各フロアに企業が入っている12階建てのオフィスビルだった。
「すみません、帰りもお願いしたいので待っていてもらえますか?」
 史緒はタクシーを降りて辺りを窺う。当然だがビルの入り口は鍵が掛けられていた。警備会社が入っているようなので忍び込むわけにもいかない。建物の周りを見て回ると上まであがれそうな非常階段があった。史緒はもう一度タクシーに戻りドライバーに言った。
「20分で戻らなかったら警察を呼んでください」
 ドライバーは面倒に関わりたくないと渋ったが史緒は無理を言って押し通した。罠に呼び出された可能性を捨て切れなかった。
 非常階段の入り口はアルミフェンスの簡素な戸で施錠してある。背丈ほどのそれに、史緒は迷うことなく足をかけて乗り越えた。
 午前6時50分。空が白んできている。
 カンカンカンッ
 早朝の街中に非常階段を叩く音はよく響いた。史緒は12階ぶんの階段を駆け上がる。
「……はぁっ、……はっ…」
 街は寝静まっている。この階段の上に誰かいるとは思えない静けさ。その静けさが、史緒を不安にさせた。
(藤子)
 心配する必要なんかない。どうせいつもの調子で───遅いよー、待ちくたびれたよ〜───などと言うに決まってる。
 いくつ目かの踊り場で切り返したとき、目が眩んだ。ビルの隙間から朝日が差していた。副都心のビル群、その影が鮮やかに街に映る。
「…っ」
 胸が騒いでいる。史緒はそれを自覚する。いっそのこと、そこに誰もいなければいいのに。階段を駆け上がる労力が無駄だと判って悔しがれればいい。そうすれば次の手を考えて、また藤子を探しに行ける。
(どうして…?)
 胸が不安でいっぱいになっている。なにをそんなに焦っているのだろう。
 カンカンカンッ
 最後の踊り場を回った。
(藤子…っ!)
 史緒は最後の階段を、踏みしめた。









 静かだった。
 12階の屋上では地上の音も届かない。街の喧噪も雑音も聞こえない。信じられないくらい静かだった。風が強いのに風の音は遠い。風を遮る障害物も、風の通り道も無いからだ。史緒の長い髪はマフラーから掻き出され強風にはためいた。その風に足を取られた。その一歩で、史緒は屋上に立つ。
 屋上は四方がフェンスで囲まれている。その向こうには副都心がパノラマとなって、まだ薄暗い景色が広がっていた。現実感の無い光景に目が眩む。
「……」
 息切れと動悸で肩が上下する。鼓動がやたらと大きく感じられた。
 屋上の広いスペースには塔屋と給水塔があるだけ。人の気配は無い。
「……とーこ?」
 発した声は異様に小さい。声を反射する障害物がなく、すべて空に吸い込まれてしまう。たかが12階なのに、ここはまるで空の上。いかに人間が地を這っているか解る。
 史緒は無意識に足を進めた。屋上は視界が良いが塔屋の影はここからでは見えない。早く確認して、待たせているタクシーに戻りたかった。
 早く。
 そう思うのに、史緒の足はなかなか前に進まない。どうしてか、身体はなにかを拒んでいるようだった。
 塔屋の壁に手をあてて、慎重に一歩を踏み出すと、そこに足があった。



 心臓をひっかかれたような衝撃があった。
 コンクリートの上に投げ出された足。その足首は鉄の枷に噛まれていた。鉄枷からは鎖が伸びてフェンスに留められている。
 もう一歩進んでみると、きれいな姿勢で横たわる身体が見えた。
 両手は腹の上に置かれ、指先は丁寧に絡めてある。
 まるで人形のようだった。こんな吹きさらしの屋上に、女が横になっている。目を疑う光景でも、その顔は知っている。國枝藤子だ。
 なにも考えられないまま史緒は歩み寄り、その手にそっと触れる。その手は絶望的なまでに冷たかった。
「……ぁッ」
 喉が水っぽく鳴った。
「うわああぁぁぁぁああ!!」
 コンクリートの上に両手を着く。肩から髪が落ちて目隠しをした。
 思考は働かない。
 ただ叫び続けた。まるで呼吸するように。そこには痛みも悲しみも無い。大声を出さなければ息を吐けなかった。それだけのことだ。
 この状況を理解することを全身が拒んでいる。大きな喪失感に食われてしまいそうで、それを振り払うために、叫ぶしかなかった。ただこの空の上では、史緒の大声など天にも地にも届かなかったけれど。
 ──…うそでしょう?
 やっとそれだけ、意味のある思考に辿り着いた。
 顔を上げると、もちろん夢などではなく、そこに藤子の体がある。そして、
「…っ!!」
 藤子の顔を見て、史緒は目を瞠った。信じられないものを見た衝撃に顔が大きく歪む。
(───…ぇ?)
 史緒は頬を引きつらせたあと、痙攣したように唇を空振りさせる。呻き声もでない。
 どうして?
 それは声にならなかった。吐息が唇のかたちに合わせ、かろうじて意味の取れる音にする。
「ねぇ…」
 可笑しいくらいに声が震えていた。
 込み上げる感情は悔しさによく似ている。歯を食いしばって堪えたのは嗚咽ではなく罵声だった。コンクリートを爪で抉らなければ声を抑えることができなかった。
「どうして微笑ってるの……ッ?」


 灰色の街に朝が訪れた。
 それはまるで美しい絵画のようだった。


つづく
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