キ/GM/41-50/43
≪12/13≫
12.12/24(金)16時
藤子はフェンスに背を預けて冬の青い空を見上げていた。
おそらく鈴木はこの場所を念入りに調べたのだろう。周囲のビルからも見つけてもらえないし、このビルの最上階には人気(ひとけ)が無いようだった。フェンスは頑丈で折れそうもない。藤子は諦めて大人しくしていた。
陽が傾き始めた。
鈴木が去って7時間以上、風は微風で天気が良く直射日光が当たることもあり気温はそれなりに暖かかった。しかし、身体は冷える一方。
(意地でも寒いなんて言ってやるもんか)
足に付けられた鉄の枷は、ものすごく重いわけでもないのに足がだるくなってきていた。こころなしかきつくなってきているように感じるのは、足がむくんでいるからだろう。
(せめて手錠にしてくれればいいのに)
手錠はコツさえわかれば誰でも外すことができる。親指の付け根の骨を折ればいい。そうすれば手は手首と同じ幅を通れる。当然、手錠から抜けるなどわけない。藤子も一度やったことがあるが、「痛いから二度とやりたくない」と思っていた。しかしこんな場合なら背に腹は代えられないものだ。
(もし手錠だったら、あたしは指を折ったかな)
逃げることは簡単。でも今まで、自分が死ぬときのために生きてきたはずだ。死ぬ直前になって、なにをそんなに慌てよう。
(もっと嬉しいんだと思ってた)
復讐されるという形でも、殺されるという形でも無かったけれど、径の終わりを見るために今まで生きてきた。そして今がまさにその状況なのだ。ずっと待っていた瞬間が訪れたら、興奮してしまうくらい嬉しいのだと思っていた。
それなのに今胸にあるのは穏やかな静寂だけ。
藤子は寒さに身震いした。太陽が降りて、気温はこれから急降下する。
(ねぇ)
誰にともなく、藤子は胸の中で囁く。
一人目を殺したときのことを、今でも憶えているよ?
傍らにいた幼い子供に憎しみの目を向けられた。直感。この子はあたしを殺しに来る。
この子と同じ目をした誰かが、いつかやってくる。
じゃあ、あたしは待とう。
殺されるために、誰かを待ち続けよう───。
(この使命感をなんて呼べばいい?)
そうする以外ほかにないことを、既に全身が理解している。他をすべて諦めても、その生き方を選ぶしかないことを解っている。悲壮感はない。ちっとも嫌じゃない。清々しいまでの諦観があるだけ。
この径を終わらせること。
幸せな今の自分が、過去の自分のためにしてあげられることは、それだけなんだ。
(そうやって結局あたしは、自分の為にしか生きられなかったんだ)
──情が移るって言葉、わかります?
鈴木が言った。もちろんわかるよ、馬鹿にしてるわけ?
好きってことでしょ?
(由眞さんと晴ちゃんと史緒。あたしはあの人達のこと好きだから、あたしの情が移ったことになるんでしょ?)
そこまで考えて藤子は、最後に千晴に会いに行った日のことを思い出した。 あの日、千晴に会いに行った日、強引に最後のキスをして去った藤子を千晴が追いかけてきた。
「藤子ッ」
アパートの前の駐車場で捕まった。
短い距離とはいえ藤子に追いつくほどの速さで駆けてきた千晴は息を切っていた。藤子の腕を強く掴んで逃がすまいとしている。そんな千晴は初めてだった。
「俺は、見に行かない」
藤子は眉をひそめた。
「…どうして? そのために付き合ってくれてたんでしょ?」
2人、ひとつめの約束だったはずだ。千晴は伯父の仇である藤子を憎んでいた。でも近いうち藤子の死に顔が見られる、だから一緒にいようと。
それなのに千晴はそれをしないと言う。
「人が死ぬのはもう見たくない。親類でも他人でも、仇でも。人間ってそういうものなんじゃないのか?」
訴えるような千晴に、何故か泣きたくなって首を横に振る。
「ごめんなさい。あたしには…わからないよぉ」
千晴の胸に飛び込んだ。抱き返してくれた。
(情が移ったの? 晴ちゃんも?)
好きってことでしょ?
(あぁ───)
言いようのない感動に胸が熱くなった。
藤子が千晴を好きだったように、千晴もまた、藤子を好きでいてくれていたのだろうか。千晴だけじゃない、史緒も? 由眞も?
(あたしも好き。晴ちゃんのこと、史緒も、由眞さんも)
(それなのにどうして?)
この径を捨てて、彼らと歩くことができることも知っている。それなのに。
(どうしてあたしは、あたしを裏切れないんだろう)
この径を後悔したことなんかない。一度だってない。
ただ、何故、と。
この径を歩くと決めた、その誓いは強すぎた。
(どうして?)
(晴ちゃんや史緒と出会う前の、自分の誓いを破れないんだろう)
藤子はコンクリートの上に倒れた。ひんやりとして気持ちがいい。
(史緒かぁ)
今までわざと史緒のことは考えないようにしていた。
──藤子に危害を加えたら私が黙ってないってこと? …馬鹿言わないで、そこまで義理堅く無いわ
──藤子になにかあってもそれは完全に自業自得じゃない
──藤子のために自分の立場が危ぶむようなまねはしません
史緒のことを思い返していたら腹が立ってきた。
(よくよく思い返したら、かなり失礼だな、史緒め)
でも史緒らしい。
「…だめだよ」
呟いてみても、近い未来は容易に見えてしまう。あの無情な言い方も史緒らしいけど、でも同じように素直であったためしもない。
(だめだろなー、あの子は動くだろーなー)
一気に涙があふれた。
「…っ」
死ぬのが惜しいんじゃない。怖くもない。
好きなひとが悲しむのが嫌。原因が自分のことなら尚のこと。
悲しまないでほしい。
忘れてくれればいい。
(そうだ)
(息絶えた瞬間に、世界があたしを忘れてくれればいいのに)
史緒も千晴も由眞も、自分のことなど忘れてしまえばいい。
そうすれば死ぬことなんて、もっとずっと楽なのに。
しばらく涙は止まらなかった。不快感は無い。大空の下で、感情に任せて泣くのは気持ちが良かった。
頬を乾かす風がくすぐったくて笑う。楽しかった。
(…あれ?)
藤子は空の一点を見つめた。
「…天使さんっ?」
その視線の先へ声を投げる。藤子は嬉々として喋った。
「久しぶり。相変わらず仏頂面だな〜。…なんか隣りに黒い人もいるみたいだけど、友達?」
藤子は遠くの空へ笑いかけた。
天気が良い。とても気分が良かった。
「あ、もしかして、最期に会いに来てっていうお願い、聞いてくれたの? ありがとう」
都会の真ん中で贅沢にも一面の空を見ている。
少し紫がかった空は、吸い込まれていきそうな、とても深い色だった。
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