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EPILOGUE
12月28日火曜日。
ほとんどの社会人が仕事納めとなる今日、世間をささやかに騒がせたニュースがあった。
朝刊の見出しは、『3日遅れのクリスマスプレゼント』、『平成版傘地蔵』など3面記事ではあるが大きく取り上げられている。他にさほど大きなニュースも無く、久々の明るい話題とあって、各紙はこぞって盛りたてた。
難病の少年が多額の寄付を受けたという。
少年の両親はあまり裕福ではなく、資産を売り払い、病院へ通うかたわら働きに出るなどして少年の入院費を払い続けていた。そんな折に、手術の必要があると宣告される。しかし多額の手術費用は当然払えるはずも無く、借金をしても賄えるものでは無かった。それでもどうにか、と両親はたまの休みに街頭募金活動をしていた、そんな矢先のことだった。
27日の深夜、少年の家のポストに一通の封筒が投げ込まれた。
──ご子息の御息災をお祈り申し上げます。
という添え書きの他に、一枚の小切手。その額面に、両親は思わず悲鳴をあげたという。添え書きに署名は無かったが、小切手には振出人の記載がある。新聞社に問い合わせたところ、ある大手企業の上役であることが判った。
この美談に新聞社は飛びつき、28日朝刊の社会面を割いた。テレビのニュースやワイドショーにも取り上げられ、なによりその募金額が世間を騒がせた。
“彼”が上役を務める企業が11月に障害者支援を打ち出していることも判明し、企業のイメージアップを図っての募金かとも思われた。なかには、寄付は非課税なので体(てい)の良い税金対策だろうと皮肉る声もあった。しかし、やらない善よりやる偽善。世間は好意的に受け止め、彼の善意を賞賛した。
───映像は、彼の出社風景から始まる。
ビルの玄関前ロータリーに黒いセダンが乗り付けた。その後部席から彼が降りると同時にカメラはズームし、フラッシュが焚きしめられた。集まっていた10人ほどのマスコミに囲まれ、突然のことに彼は驚いた様子を見せた。
「な、なんですか一体! おい、勝手に映すな」
マスコミを掻き分けるなか、焦った表情が映る。
「北実さん! 難病の少年に一千万円を寄付したそうですね」
「…なに?」
「あなたのおかげで、年明けにはすぐ手術だそうです」
「少年とそのご両親は是非あなたにお礼を、と言っています。涙ながらの会見はもうご覧になりましたか?」
「どうしてこのように大金の寄付を思い立ったのですか?」
「御社の障害者支援の先陣を切ったということですか?」
「北実さん、一言、お願いします!」
「今のお気持ちをお願いします!」
マスコミに囲まれ暇無くシャッターを切られる、その中心で、彼の表情は不自然に歪んでいた。愕然としているようにも見えた。アップになった表情は唇が細かく震えていた。
「北実さん!」
「は…はぁ、ええ。…その、はい、そうですね。その…、少年? には、早く元気になって…いただきたいと」
しどろもどろの発言中、北実は不自然に手で隠してたが、画面にしっかり映っている。
北実の左頬には大きな痣があった。
真相を知る者はごく僅かだった。
マスコミに囲まれる北実の顔の痣を、仕事場のテレビで見た佐東考三は声をあげて笑った。見る者が見れば、その痣は殴られたものだと判る。誰がやったかは悩むまでもない。あの様子では殴ったほうの腕も相当いかれているはずだ。「慣れないことはするものじゃないですよ」佐東は同情した。しかし、この結果こそが、彼女流のやり方なのだろう。
その他、耳ざとい情報屋は、この茶番を仕掛けたのが阿達史緒だと聞きつけていた。同時に國枝藤子の死亡と、國枝藤子に手をかけたのが鈴木という始末屋だということも。
國枝に手を出せば阿達によって社会的に抹殺され、阿達に手を出せば國枝に殺される───その噂通りに手は下された。國枝亡き後、阿達史緒は己の立場を守り、力を知らしめたのだと、業界内では評価された。
桐生院由眞はオフィスで電話を受けていた。
「そう、史緒は戻ったのね、それならいいの。…あなたたちも仕事納めでしょう? もう年内は連絡しないから…ええ、よいお年を」
電話の向こうで的場文隆が「お悔やみ申し上げます」と言った。辞令だろうがその声は慎重だった。
「ありがとう」
由眞は電話を切って立ち上がり、窓の外を眺めた。あの子がよく、そうしていたように。
あの子はいつもここから景色を眺めていた。なにが楽しかったのかは解らない。でも、日本へ連れ帰って、初めてここに来させたときもそうだった。窓にへばりついて、飽きもせず見ていた。「由眞さん、世界ってキレイなんだね」ここからの景色はお世辞にも綺麗とは言えない。海へ続く川と、対岸に灰色のビル群が見えるだけだ。それをキレイと言うあの子は、ここからの眺めからなにを読みとったのか、それまでどんな世界を見ていたのか。それを思うと辛い。
國枝藤子の遺体は本人の遺言に従って献体に回された。おそらく史緒は、それを警察で聞いただろう。
千晴にはもう連絡が取れなかった。由眞はなんとなくそれは予感していた。もう会うこともなさそうだ。それは彼らしい。誰かと藤子を偲ぶなどしない。大学のメールアドレスに今回の結果だけを送っておいたが、果たして彼は読むだろうか。どちらでも構わない。どちらにしろ、これが最後のメールになる。
由眞は重い重い溜め息をついて、デスクの上の電話の内線ボタンを押した。すぐ隣りの部屋の秘書に繋がる。
「年内は休むわ。予定はすべてキャンセルして」
「了解しました」
「それから、紫苑に連絡をお願い」震える声を正さなければならなかった。「藤子は死んだって」
内線を切ると同時に、由眞は机に伏した。
顔を上げるまでには時間がかかるだろう。
篤志、司、三佳はそれぞれ自分の部屋でニュースを見ていたが、多くの視聴者と同じように特別に気にかけることはなかった。少しの興味深いニュースとして捉えただけだった。
史緒はこの日、部屋から一歩も出なかった。ニュースも見ていない。一日中、ベッドに寝ころんでいた。
夜、カーテンの隙間から七日月が見えた。
雲一つない黒いだけの空を煌々と照らす。史緒はなんとなく、それを眺めていた。
どれくらい経ったか知れない。
視界が滲んで、月が見えなくなった。
あっという間にあふれ、頬を伝い、シーツに染みこんでいく。
とめどなく溢れる涙を止めようとは、もう思わなかった。
藤子を失くしてはじめて、史緒は泣いた。
そして翌日。
12月29日水曜日。
この日、阿達史緒は18歳になった。
end.
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