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31.12/27(月)23時

 史緒は警察署を出ると空を仰いだ。夜空が明るかったからだ。
 空一面に薄い雲が広がっていた。一際明るい部分があり、月が見えなくてもその位置を知ることができる。史緒は空を見上げながら、冷たい空気を深く吸い込んだ。肩で息を吐くと、雲と同じように息が白い。身体が急激に冷えていった。
 そして、張りつめていた神経も、音をたてて緩んでいくのを感じた。気が抜けたせいか、歩くことも危うい。両膝がおかしいくらいに震えている。少し休んでから帰ろうと、史緒は玄関前の階段に腰を下ろした。
 辺りは静かだった。警察署の玄関からの灯りが、史緒の影を階段に映し出していた。
 澄んだ空気を胸に吸い込む。
 ───きっと、今、なにかが終わった
 途中、足を止めずに終わらせることができた。その達成感はあった。
 じわり、と涙がにじむ。それは気が緩んだせいか、寒さのせいか、それとも悲しいせいか、史緒には判らなかった。大声で泣きたかった。でも自分自身にそれを許すことができない。
 さきほどまで続いていた事情聴取の相手は計良。25日朝の発見から通報が遅れたこと、行方をくらましたことなどを訊かれた。「友達が死んで、気が動転してたんです」他の刑事はともかく、計良は信じないだろう。途中、木戸も顔を見せたが目を合わせることができなかった。今の気持ちを読みとられてしまいそうで怖かった。
 えいっ、と勢いをつけて立ち上がる。
 早く帰ろう。
 このまま独りでいたら、感情に呑まれて崩れてしまう。
 薄暗い駐車場を横切って、敷地内の階段を足早に駆け下りる。(今、何時だろう。電車まだあるかな)
 そのとき、史緒は胸を突かれて足を止めた。
 警察署の門柱の傍らに、大小3つの人影があった。
(どうして…?)
 司と三佳、そして篤志。
 むこうも史緒に気付いたらしく、それぞれの表情がこちらを向く。篤志は無表情、司は安堵の笑みを浮かべ、三佳は泣きそうな表情で司の腕にしがみついていた。
(もし、北実を刺していたら、私は彼らをも失うところだった)
 北実にナイフを向けた瞬間、その判断はできなかった。だからこれは結果論でしかない。
 それでも手放さずに済んだ。感情的になって暴走しても、守ることができた。失わずに済んだ。そのことに、史緒は祈るように感謝した。
(これでよかったんだ)
 階段を降りてゆっくりと3人に歩み寄る。ふと、篤志が史緒の右手に目を向けた。長い袖で隠れていたはずなのに本当に目ざとい。史緒は包帯が巻かれた右手を持ち上げて見せた。
「思いっきり殴ってきたら、痛めちゃった」
 篤志は一瞬目を見開いた後、やんわりと笑った。
「ばーか」
「なによー」
 むくれて見せる。
「気は済んだか?」
 篤志の問いかけに、首を横に振って返す。
「まさか、後悔だけ」
 関係無い人を巻き込んで利用してしまったこと。沢山の人に迷惑をかけたこと。仲間に心配させたこと。
(でも、何もしなかったときの後悔よりずっといい)
(そう。何もしなかったときより、ずっと)
 表情を保っていられなかったので俯いて隠した。それだけのことで身体がよろけて、篤志に支えられる。
「泣いていいんだぞ」
 優しい声に従ってじんわりと込み上げるものがある。けれど。
「───ごめん」顔を上げて笑顔を見せた。「泣けないみたい」
「史緒」
「大丈夫。年が明けたらみんな帰ってくるし、それまでにはちゃんと立ち直る」
 駅までの道を、史緒は篤志に支えられながら歩いた。ぬかるみを歩くように足がうまく動かなかった。
 初めて害意を込めて人を殴った。その右腕と右肩が痛い。酷く痛い。
(この痛みがずっと残ればいい)
(そうすればずっと、忘れずにいられるのに)
 一番恐れていることこそが必然。───史緒はもう知っている。
 共に過ごした喜び。亡くした辛さ。悲しみ。
 この記憶さえ、いずれ風化してしまうことを。


 空の色は重い。
 雪が積もったような空だった。

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