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 3−3


「私の…目の前で」
 あのとき、心臓を握り潰された。
「亨くんの背中が、ほんとに、真っ赤で…。櫻は、嘲笑ってた」
 抉られるような感覚は痛くはなく、ただ苦しかった。空虚感があった。すべてを抜かれてしまったような喪失感が、体を冷たくした。
 和成はかすかに目を見開いただけで、史緒を見つめている。約束通り、否定も、笑いもしない。本心では、史緒の戯れ言に呆れているのかもしれないけれど。
「…それで史緒さんは、櫻に復讐したんですか」
 静かな問いかけがあった。
「あんなの復讐じゃない!」
 史緒は怒鳴り返した。
 崖の上に立つ櫻。久しぶりに会話らしい会話をした櫻は相変わらずだった。
「櫻を解ろうとするのは徒労! どうして、なんて考えるのは無駄! 櫻を解れないままで、二度とあんな気持ちを味わいたくないなら、逃げるしかない、怯えるしかなかった、私は───」
 口にして初めて気づくことがある。言葉という形にして、初めて。
 自分の勝手さや汚さ。目を逸らし続けていたもの。
「私は怖かっただけ…。亨くんの復讐なんかじゃない。私は、利己的に、楽になりたかっただけなの」
 糾弾されるべきは自分だ。櫻は亨を殺したけど、その櫻も死んでしまった。史緒が殺した。
(それなのに私はずるい)
 まだ願っている。
 誰も失いたくないと。
 現在の自分を取り巻く人たちを守りたいと。一緒に生きたいと。
 そう願うことをどうか許して欲しい。櫻や亨、咲子やネコ、藤子に───。
「史緒さん」
 肩を引かれたかと思うと、ぬくもりに包まれた。和成の腕に抱きしめられていた。
「…ぇ、あの」
 目の前の胸を押し返そうとしても、和成のほうが力が強かった。
「言ってくれて、ありがとう」
「───」
 辛かったね、苦しかったね。そんな言葉よりずっと心が軽くなる。
 ぬくもりが優しい。
≪好きな人と抱き合うのって、感動するよ≫
 そう言ったのは藤子。
 史緒は戸惑いながらも体を預けた。
「…っ」
 そのぬくもりに涙が溢れた。

 櫻が風の中に立っている。
(…なに?)(なんて言ったの?)
(あの崖の上で、櫻は)(櫻はなんて言った!?)
≪───≫
(櫻…?)
 突然、和成に両肩を掴まれて思考が中断した。顔を上げると、和成は史緒の背後に視線を留めている。
「じっとしてて。人が来ます」
 ここは公道だ。少しだけ体を捩(よじ)ると、駐車場と反対のほうから、長身の男性が歩いてくるのが見えた。史緒は自分がひどい顔だと自覚していたので、大人しく和成の影に隠れた。
 芝の上を歩く足音が近づいてくる。道のむこうがわを、足音が通り過ぎていく。
 ぴゅ〜、と口笛が聞こえた。端から見たら抱き合っている2人を冷やかしたのだろう。
 その足音は少しも速度を変えずに、そのまま遠ざかっていった。
 史緒はそっと和成から離れる。見ると、和成は男性を目で追っていた。その表情には驚きが含まれている。
「どうしたの?」
「…今の」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
 和成は視線を下ろして史緒に笑ってみせると、
「さぁ、行きましょうか。マキさんが待ってます」
「ええ」
 自然と手をつないで、2人は歩いた。






 通り過ぎざま、男は笑ったように見えた。

 誰かに、似ている気がした。


end
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