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 3−2


 史緒が視界から消えたので、和成は振り返った。
 史緒は3歩離れたところで背中を向けていた。今、歩いてきた道を真っ直ぐに見据えている。冷たい風が吹き、その髪を乱した。
 背中から史緒の腕を取る。すると、史緒は拒むように体を捩(よじ)った。
「放して」
 腕を捕らえたまま答えないでいると、顔を上げて叫ぶ。
「どうしてあなたが知ってるのっ?」
「なにも知りません」
「うそッ! ここに連れてきた理由はなに!?」
「ここが、阿達亨の死亡事故現場だということは聞きました」
 史緒の体が強ばる。
「…マキさんに会うっていうのは、嘘?」
「本当ですよ。でも、ここへ連れてくるほうが本題だったということです」
 史緒は再び和成の手を外そうと藻掻く。
「手…放してぇ」
「史緒さんは、昔から、なにか言いかけて結局言わない」
「…え?」
「子供の頃、追い詰められたような顔で、いつも、なにか言いかけてたでしょう?」
「───」
 史緒の表情は図星を表していた。
「それは櫻のこと? それとも、亨のことですか?」
「───」
「言ってください」
 うつむいて首を振る。その肩はどう見ても震えているのに、史緒は気丈にもひとりで立っている。
「…私が初めて史緒さんに会ったのは、あなたが7歳のときです。その直前、阿達亨が事故で亡くなったというのは聞いています。その事件を境に、史緒さんが櫻に怯え、部屋に閉じ篭もるようになったということも」
 咲子は櫻を救おうとしていた。つまり櫻が死んだ時点で、彼女の企みは無駄になったことになる。篤志もそれは理解しているはずだ。だから篤志や和成が彼女に託された仕事はあとひとつしかない。
「なにに苦しんでいるのか、教えてくれませんか」
 幼い頃、病的に怯えていた史緒をいまさら救えるとは思ってない。和成ができることはただ吐き出させることだけ。史緒がずっと口に出せずにいたこと。ひとりで抱えていたもの。それで史緒が楽になれるなら。




 それは、ずっと抱えていた荷物を下ろす行為と似ている。
 長い間、それは両肩にあった。だからその重さには慣れてしまった。でも時折、過去に囚われたとき、胸が騒いだときに、倒れてしまうくらいに重くなる。それをやり過ごす苦しさにも、もう慣れてしまったけれど。
「…誰かに言えたら楽になる、のは、わかってるんです」
 史緒は消え入りそうな声で言った。
「でも私は、言いたくありません。この思いを誰かに預けたく、ない」
 少しだけ荷物を下ろして、軽くなった体に息を吐く。けれどそれは嫌悪する行為。ずっとそう思っていた。
「どうして?」
「自分の弱さを許すことと同じだから」
 心のなかの悲鳴を声にしたことは無い。子供の頃、和成に言いかけたことはあったかもしれない。けれど、自分自身にそれを許すことができなかったはずだ。───今と同じように。
「自分の内だけで完結する感情を聞いてもらっても、相手を困らせるだけです。困らせると解っていて、自分ひとりで抱えているのが辛いからって吐き出してしまう、そんな勝手な自己満足の、自分の弱さを認めるのは嫌です」
「私は困りませんよ。史緒さんが子供の頃なにを言いかけていたのか、なにに苦しんでいたのかを知りたいだけです」
「…な、慰めて欲しいわけじゃない、自分を正当化して欲しいわけじゃないの。そういう、傷を舐めてもらうような行為がほんとに、気持ち悪いんです」
「慰めも正当化もしません。ただ聞くだけです」
 和成は思いのほか強い声で答えた。逆に、史緒の声はそれとわかるほど震えている。
「…今更…何かが収まるわけじゃないんです」
「ええ」
「何かを変えたいわけじゃないし、何かを得られると期待もしてない」
「史緒さんの気が済むなら、それでいいじゃないですか?」
 唇が震えて口を閉じていられない。歯列が鳴りやまない。
「…わがまま、言ってもいいですか?」
「どうぞ」
「疑わないで」
「わかりました。信じます」
「否定しないで。笑わないで。子供の戯れ言だと思わないで」
「ええ」
 これでは本当に子供だ。疑うな、などと他人に言う傲慢さ。それなのに和成のやわらかい笑顔は少しも揺るがない。
「───…」
 口にしてしまったら、そこでなにかが終わる。
 きっと変わってしまう。
 抱えていた荷物のなかには、この体を歩かせる杖もあった。
 辛い記憶も自分を支えていた。
 それを手放して、次にどんな強さを持てる?
「史緒さん」
 手を引かれ、その温かさと力強さに揺れる。
 きっとこの身体は弱くなる。でも、今までの強さなど、種の無い実のようなものだから。


「たすけて」


 和成が目を瞠(みは)る。その表情が涙で見えなくなった。
「ぅー……」

 たすけて。
 なにから?

 この記憶から。

「櫻は、亨くんを殺した」


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