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■1.
 史緒にとって最悪の年越しから半年。季節は初夏、7月。
 その日、史緒は朝から馴染みの美容室へ出掛けた。予約しておいたシャンプーとブロー、それとセットをしてもらう。「今日はなにかあるんですか?」という美容師のトークを笑ってかわして、店内の姿見で全身をチェック。髪だけでなく服もいつもと違う。ふくらはぎが隠れるマーメイドスカートは白地に赤の模様が流れて上品さを和らげている。薄地の黒のボレロはカジュアルすぎるのを抑える。主張のない、無難なお嬢系ファッション。メイクを直して、アクセサリーとバッグの組み合わせを確認、美容師にOKサインをもらって、史緒はタクシーに乗り込んだ。待ち合わせ場所である都内の某ホテルへ。
 時間ぴったりに合流して、挨拶ののち、エスコートされるままにラウンジへ。ゆったりとしたソファに腰を下ろし、アイスティをオーダー。そして1時間ほど談笑。
 父親と。

「不満、か。…そうだな、自立した大人に育って欲しいとは思っていたが、10代のうちから家を出るとは思わなかった。そのあたりかな」
「大勢の社員を抱える仕事に、そうですね、尊敬します。…なんて、私が言うのはおこがましいですけど」
 テーブルに着くのは史緒と父・阿達政徳。
 だけではもちろんなく、政徳の秘書・梶正樹。それから、某経済誌のインタビュアーとカメラマン、計5名がひとつのテーブルを囲んでいた。
 テーブルの中央にはレコーダーが置かれ、一連の会話を録音し続けている。インタビュアーとカメラマンはともに男性、少しでも多くの言葉を引き出そうとはしゃぐように(けれど型どおりの)質問をぶつけてくるインタビュアー。それに受け答えする政徳と史緒に、会話を邪魔しない程度の間隔でフラッシュを焚くカメラマン。
 政徳はおおらかに、史緒はわずかに緊張した面持ちで、けれど2人ともにこやかな笑顔を絶やさなかった。
 某経済誌は「社長の家」というテーマで特集を組んだ。企業のトップ、そのプライベートに迫ろうというものだ。「社長の家」その10回目のゲストとして総合商社アダチに、編集者は白羽の矢を放った。
 ───迷惑な話だ。
 史緒は歯の裏まで出かかった科白を飲み込む。同じ科白を政徳も飲み込んでいた。

 やがて芝居のようなインタビューは終わり、雑誌社の2人は席を立った。史緒も起立し笑顔で見送る。彼らはラウンジを横切り、エントランスを抜け、駐車場のほうへ消えていった。少しの余韻が残る。
 途端に場の空気が冷えた。まるで仮面を外すように父と娘は表情を下ろす。
「疲れたか?」
「ええ、とても」
 ただ一人、始終一貫して愛想笑いひとつせずに視線を落としていた梶が「お疲れ様でした」と低い声で言った。
 史緒は椅子に座り直し、通り掛かったボーイにホットコーヒーを頼む。そうして、ようやく盛大な溜め息を吐くことができた。
「質問も回答も梶さんのシナリオどおり。私が来る意味は無かったのでは?」
「面倒な風評を立てられないために形式は重要だ」
 まるで部下に説くような言い方が鼻につかないでもないが、いきなり馴れ馴れしくされても本当に困る。史緒はおとなしくそれを聞いた。
「それにしても…」
「はい?」
「よく、この仕事を受ける気になったな」
 梶から連絡があったのは一週間前のことだ。雑誌社の取材に同席してほしいというもの。もちろん即断で拒否。けれど史緒が来なければ取材そのものを断ると聞き、悩んだ末に返事を改めた。
「いろいろと私なりに思うところがありまして」
「聞かせてもらおうか」
 茶を濁したつもりが食い下がられて史緒は言葉に詰まった。気恥ずかしさとしばらく戦う間に適当な建前も思いつかない。結局、正直に言った。
「娘としての義務もあるか、と」
「ずいぶん変わったものだな」
「成長したと言ってもらえませんか」
 こんなくだけた雰囲気での会話は初めてかもしれない。いつも会うときは社長室で、刺々しい空気と言葉のやりとり。けれど今はこの場の雰囲気のせいか、それとも単に社外であるせいか、政徳がまとう空気も少しだけ丸く感じられる。
「私は今の自分の居場所に満足しています。もし父さんの娘として生まれなかったら、篤志とも司とも出会えなかった。当然、今の居場所もなかった。…ということに、今更ながら気付いたわけです」
 政徳とのあいだには未だ確執がある。けれどこのことに気付いたのは決して悪いことではない。今更ではあるが、遅すぎたわけでもないだろう。
「感謝しているんです。これでも」
「取材はもう終わっているが?」
 史緒は声もなく笑った。父の言葉が否定の意味でないことがわかったからだ。もし照れ隠しだったりしたら、驚きの発見になる。
「しかし、娘としての義務というなら…」
「それと、仕事と結婚は別です」
 余裕をもって釘を刺す。
 政徳は縁戚にあたる関谷篤志を後継者として育てようとしている。そのために、史緒と結婚させようとしている。数えてみればもう3年以上、この話で揉めていることになる。
 史緒と篤志は婚約はしたものの、2人とも本意ではない。篤志はなんとかなると気楽に構えているが、史緒としては、本来は関係ないはずの篤志を阿達家の問題に巻き込みたくなかった。いつかは決着を着けなければならないと解っていても、政徳とは平行線のまま。
「史緒」
「はい」
 次はなにを言ってくるかと身構えると、政徳は意外なことを口にした。
「咲子からなにか預かってないか?」
「…咲子さん?」
 質問の意味が解らず5秒ほど返事が遅れた。「いいえ」
「ならいい」
 あっさり引き下がり、政徳は席を立つ。
「送ろうか?」
「けっこうです」
 史緒は儀礼的に立ち上がって政徳が去るのを待った。
「おまえは今の仕事を続けるつもりらしいが…」
「もちろんです」
 政徳は軽く笑った。妙に含みのある表情だった。
「篤志はどうかな」
「え?」
「今一度確認してみたらどうだ。ついでに司と、他の部下たちにも」
 踵を返して史緒から離れていく。梶もそれについていき、史緒はひとり残された。
「……なに?」
 政徳の含み笑いの意味を、掴みきれないまま。

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