キ/GM/41-50/46
≪3/13≫
■2.
朝、司はいつもより3時間早く出掛ける支度を済ませた。
季節柄、窓の外はすでに明るく朝日が眩しいはずだ。けれど司にはそれを感知できる視力はない。解るのは雨の音が無いこと、カーテンを開けたときの肌を刺す熱、気温と湿度。それらから司は今日の天気が判っていた。ちなみに温度は21℃。…ニュースでそう言っていた。
危なげなく家具の間を通り抜けて寝室へ入る。ドアは閉めない。一刻ほど前まで寝ていたベッドに腰を下ろして出発予定時刻を待つ。司は座ったまま、自分の部屋、それに続くキッチンを見渡した。見渡す、というのはもちろんおかしい。しかし司はどこになにが置かれているかをすべて把握している。
この部屋で暮らし始めて3年。最初は必要最低限のものしかなかった。それ以上の物は邪魔なだけだ。本人は判らずとも、殺風景な部屋だったに違いない。
けれど今は違う。彼女が出入りするようになってから色々な物が増えた。壁掛け時計やカレンダー、テレビ、鏡。それらは司にとって意味を成さない。それでも置くことには意味がある。そう、彼女が現れてから、少なからず生活が変化したことは確かだ。
両手を後ろについて天井を仰ぐ。脳からの指令どおり上を向いたと判るのは首の角度と三半規管。目から得る情報は物体を認識しない。当然、天井も見えない。目蓋を開けてもそれは変わらない。もはや確認するまでもない、脳が切り捨てた感覚器官。
キッチンのテーブルの上には手紙が置いてある。1週間前に、それは速達で届いた。内容は知られたくないものだが、見られても構わない。何故ならその手紙は司宛に点字で書かれているからだ。健常者の読者はほとんどいない。この部屋へよく訪れる彼女もそれを読むことはできない。
その手紙は、最近の司の悩みをまた一つ増やすものだった。
司は携帯電話を手に取り、短縮ナンバー2桁を押した。この時間では彼女は寝ているだろう。連絡しようとしていることは大したことではない、でも彼女は怒らないはずだ。彼女の声を聴いて、沈みかけている自分の気持ちを少しでも励ましたかった。
「あ、僕だけど。やっぱり寝てた? うん、朝早くにごめん。今日の午前中、用事があって出掛けてくるから、そう、昼には事務所のほうへ行けると思う。史緒にもそう伝えておいて。うん、起こしてごめん、じゃあ」
そこで会話を終わらせ電話を切ろうとした。そのとき、電話の向こうから呼び掛けられて、もう一度電話に耳を傾ける。
「誕生日おめでとう」
まだ眠そうな声で、それだけ聞こえた。
司は目を細めて微笑んだ。
「…ありがとう、三佳」
通話を終えると司はベッドから立ち上がった。支度済みのバッグを持って歩き出す。キッチンのテーブルの上の手紙と白い杖を持ち、サングラスを掛け、靴を履いて外に出る。ドアの鍵を締める。
馴染みではない場所へ電車で向かわなければならない。ラッシュが始まる前に目的地へ着きたかった。
慣れない場所では司の行動は極端に遅くなる。一歩踏み出すのにも神経を集中させなければならない。目的の駅に着き、電車を降りてホームから改札まで、実に30分も掛かってしまった。晴眼者はあまり意識しないだろうが、駅という公共施設には障害者の為の点字や点字ブロック(地面がデコボコしているアレ)が多く配置されている。階段の手摺りや券売機のボタン、改札口にも。それらはとてもありがたいけれどラッシュ時には点字ブロックを追うのも一苦労だ。人波にはね除けられてしまう。
(このぶんだと着くのはいつになるかな)
笑っている場合ではないがこの状況は司にとって耐え難いものだった。雑音が多すぎる。そして人が多すぎる。けれど仕方ない。マイノリティは去れ、世の大半はそういうものだから。
司は改札を抜けたそばの壁に背を持たせた。人に酔ったのか嘔吐感がある。少し休みたかった。
「着いたなら連絡をくれればよかったのに」
と、目の前から声がした。
え? と咄嗟に聞き返したものの、司はそこに誰がいるのか判っている。
「迎えにきたよ、司くん」
「おはよう、和成さん」
*
6年前、13歳の司もここに立った。
アダチ本社ビル社長室。
≪20歳になるまでは私が後見人になる。これは事故の賠償ではないよ。優秀な人材を育てることへの投資だ≫
阿達政徳。アダチの社長であり、史緒の父親。そして、司が失明するに至った事故の最終的な責任者。
≪20歳までに、自分の進むべき道を選ぶこと。どんな仕事に就き、どうやって生活していくのか考えろ≫
香港から帰ったばかりの司は自分の能力に自信がついたばかりだった。今思えば、それは過剰な自信だ。
政徳の言うとおり自分の進むべき道を選ばなければならない。それは食べて生きていくためにそれはごく当たり前のことだ。13歳の司もそれは認識していた。ただ、6年という猶予はあったし、どんな未来だろうがどうにかなるだろうと、目が見えなくても充分やっていけると思っていた。なにをやっていくにしても、このままの自分で、精神的に大きな変化もないだろうと。
けれど往々にして未来への予測は足りないものだ。
そして6年が経ち、司は20歳(ハタチ)になった。
あの日と同じ場所で、同じ人物と向き合う。阿達政徳と。そしてあのときはまだアダチの社員ではなく、司の隣にいた和成と。
「まずは、20歳の誕生日おめでとう、と言っておこうか」
低い声が空気を揺らした。その声の受けとめ方も、6年前とは違う。
「ありがとうございます」
そして司自身も6年前とは違う。
至らない能力、未熟すぎた決断、多くの人に支えられ、影響されて、間違いなく自分は変化した。
本当に月日が経つのは早い。6年、そのあいだに阿達咲子が亡くなり、篤志と出会って、櫻の失踪事件、史緒が家を出て、それについて行って、仕事を始めて、三佳や他のメンバーと出会った。
進むべき道を選べ、と政徳は言う。ここで司が、史緒が起(た)つA.CO.を指さしたら、それは政徳の投資を裏切ることになるのだろう。
それでも司は、篤志と史緒に賛同し、今の道を選ぶ。───しかし。
「本当に申し訳ないのですが、結論は先送りになりそうです」
「あぁ」
政徳も低く了解を声にする。
「こちらにも蓮家から連絡がきた」
司が受け取った手紙と同じ内容のものを、政徳も受けていたらしい。
「蓮大人が医者を捜し続けていることは知っていたが…。どうする? こんな機会は二度とない。行くのか?」
「───はい」
この手紙を受けてから散々悩んだ結果だ。
「と言いたいところですが、もう少し待ってもらうつもりです。最近、気になることがあるので」
「気になること?」
「いえ、気のせいだとは思いますが放っておけないことなので。蓮家のほうへは…秋までには、たぶん」
「そうか。───私の庇護を離れるといっても、なにかあったときは力になろう。遠慮なく言いなさい」
司は声を改める。
「僕を拾ってくださったこと、本当に感謝しています。僕の進む道がおじさんの期待に添わないことは心苦しく思いますが、僕自身は今に満足している。これから先もそうあるために、その努力ができるよう育ててくれたおじさんに感謝するでしょう。本当にありがとうございます」
「史緒と同じことを言う」
政徳は微かに笑う。
「ひとつ言っておこう。若い者が“今に満足している”などとは口にしないことだ。己の世界が狭いと言っているようなものだからな」
史緒にも同じことを? と訊こうとしたがやめた。身内に助言をする人ではない。
和成に送られて部屋を出た。
この廊下はあまり好きではない。このビルの中でこのフロアだけは絨毯敷き、足音が聞こえないのだ。
エレベーターに乗り込んでから、和成が浮かない声で言った。
「最近、様子がおかしいというようなことは無い?」
意図が判らず司は訊き返した。
「誰の? 史緒?」
「いや、そうじゃなくて」
気まずそうに言い淀む。回答に迷っているわけではなく、言うか否かを迷っているようだった。
エレベーターが1階に着き、ドアが開く前に和成は小さく声にした。
「…篤志くんです」
≪3/13≫
キ/GM/41-50/46