/GM/41-50/47
2/16

■01
 扉を開けると一面に青が広がった。
 空気が変わる。やわらかい風とあたたかい陽だまりに包まれる。眩しいくらい白い雲と、圧倒される蒼穹。
 屋上の手すりの向こう側まで一面の空、まるで高い塔の頂上にいるようだった。
 痛いほどの視線を感じて空を仰ぐとそこに太陽がある。手を翳(かざ)す。掴めないと分かっているのに、腕を伸ばす。地面に短い影が落ちる。
 汗ばんだ肌に、服の隙間から風が通り過ぎていく。
 短い髪が弄(いじ)られる。
 なにか大きなものに抱かれるよう。
 それはとても、心地よく。

「櫻!」
 背後から声がかかった。振り返る。赤日(せきじつ)に目が眩んでいたので、塔屋の影から出てきた顔がよく見えない。
 けれどもちろん、声だけで判る。
「咲子さん、見つかったって。今、婦長さんが叱りに行った」
「どこにいた?」
「東側の駐車場で捕まえたみたい」
「脱走!?」
「どうかなー。最近、無かったけどね」
「ったく、あの人は、病人だって自覚があるのかな」
「同感」
「目を離すと何するかわからないところは史緒と同じ、小さい子が2人いるみたいだ」
「それも同感。───それにしても、櫻が咲子さんを捕まえられないなんて珍しいね。いつもはすぐに見つけてきちゃうのに」
「う〜ん、てっきり屋上(ここ)だと思ったんだけどな。そっちこそ、史緒は?」
「婦長さんに預けてきた。僕らも行こう、そろそろマキさんが迎えに来るよ」
「今、行くよ。───亨」


 療養棟の阿達咲子の双子(こども)といえば院内では有名人だった。母親に似て明るく、快活に物言う様は周囲の目に気持ち良く映る。院内の老人や子供たちとも仲が良く、母親の見舞いに来た際にはあちこちに顔を出していた。
 2人は足早に廊下を進む。そのまま駆け出しそうな足取りだが、それをしないのはもちろん禁止されているからだ。それでも少しずつ速度が上がってしまうのは、2人が並んでいるせい。見知った顔に挨拶しながらでも自然とかけっこのようになり、2人は我先にと笑いながら廊下の先を急いだ。
 母の病室の前まで来たとき、目の前でドアが開いた。婦長さんが顔を出す。
「あら、2人とも、捜索ご苦労さま。咲ちゃん見つかったわ。本当に人騒がせなんだから」
「いつもすみません」
 共通の気苦労を持つ3人は顔を合わせてしみじみと息を吐く。
「ねぇ、史緒は?」
「咲ちゃんと一緒よ」
 お礼を言って入れ違いで病室に入る。その室内を見て、2人は目を丸くした。
「あれっ、お父さん!」
 日当たりのよい部屋の中には、ベッドの上で上体を起こしている母、その腕に抱かれている妹、それから窓際に立つ父がいた。
「だから咲子さん、いつものところにいなかったんだ」
「ごめんなさーい」咲子は肩をすくめて舌を出した。「政徳クンの車が見えたから」
 スーツ姿の政徳は2人の姿を眩しそうに見ると、仕事で硬くなった表情をほぐすように笑う。
「元気にしてたか? 2人とも」
 父に問われて櫻と亨は、それを証明するように手を上げて笑いながら答えた。
「咲子さんと史緒のおかげで風邪ひく暇もないよ!」
「ほんと!」
「ははは。史緒はどうだ?」
 咲子に抱かれている史緒は、政徳が顔を覗き込むと肩を震わせた。「元気だよ!」とぶっきらぼうに言うと、視線を外し、亨に手を伸ばす。構って欲しい合図。亨が咲子から史緒を預かると、史緒は亨の首に手を回して力を込めた。政徳は苦笑い。
「史緒はいつになっても懐いてくれないな」
「お父さん、あんまり家にいないから」
「史緒って、けっこう人見知りだよね」
 父を慰める子供たち。重ねるように咲子も。
「史緒の“お父さん”と”お母さん”は櫻くんと亨くんなのよね〜。とくに、亨くんにべったり」
「咲子さんは、櫻にべったりじゃない」
「そうそう、心配させてばっかり」
「あ、ヒドイ。政徳クンの前で」
 4人の子供を前にして、政徳はとうとう声を上げて笑った。
「亨が母親代わりだとしたら君はどうする。お役御免か」
「あら、いいのよ。あたしは史緒の友達でもあるんだから」
 胸を逸らして鼻を高くする咲子。そのベッドのもとに「僕も!」と群がる子供たち。その様子を政徳は目を細めて眺めていた。
「櫻」
「なぁに、お父さん」
「みんなのこと、頼むな」
 父からの意外な申し出に櫻はきょとんとする。けれどすぐに誇らしげに大きく頷いた。
「まかせて!」
「お父さん、僕は?」
「僕のほうがお兄ちゃんだもん」
 政徳は両手を広げて櫻と亨の頭を撫でた。
「2人がいるから、安心して出掛けられるよ」
 櫻と亨は顔を合わせて照れたように笑う。
 政徳は史緒にも手を伸ばす。「イイコでいるんだぞ」史緒は一瞬首をすくめたものの、顔を上げて笑って返した。
「政徳クン、あたしはっ?」
 と、咲子がねだるので、政徳は呆れたように咲子の頭にも手を置いた。
「将来的には、どちらかに父さんの仕事を手伝ってもらいたいな」
「お父さんの仕事!? このあいだ、連れて行ってくれたところ?」
「人がたくさんいたよね。また行っていいの!?」
「行きたーい!」
「行こー!」
 予想以上の双子の盛り上がりに政徳は慌てて付け加える。
「大きくなったらな」
 すると今度はブーイングが起こった。日頃、仕事柄、神経を擦り減らす交渉(化かし合い)ばかりしているので、こうも素直な反応を見ると新鮮な驚きがある。
「わかったわかった。じゃあ、年が明けたら一緒に香港へ行こう」
「え? 香港?」
「香港ってどこ?」
「え、蓮家のおじ様のトコ? 政徳クン、お呼ばれしたの? お仕事? まさか一人で? ずるい!」
「おとうさん、しおはっ?」
 抑えるつもりが、咲子と史緒まで参戦しての質問攻めに遭った。政徳はひとつひとつそれに答えていく。
「香港は外国、ずっと遠くだ。仕事も少しある。大老とはしばらくお会いしてなかったから、新年の挨拶も兼ねて。梶と行く予定だったが、櫻と亨も大きくなったし、あそこの兄姉と会っておくのもいいだろう」
「子供がいるの?」
「ああ、大勢な」
「行くー!」
「しおも!」
「咲子は許可が下りないだろう。史緒は今回は留守番」
「えーっ」
 そのとき、病室のドアが開いた。
「ずいぶん賑やかですね」
 両手に荷物を抱えて入ってきたのは阿達家の家政婦・真木敬子。そして櫻と亨がそうだったように、彼女もまた、室内を見て目を丸くした。
「あらまぁ! 珍しい、お揃いで」
 真木が大声を出してしまうくらい、阿達家の5人が揃うのは本当に珍しい。真木は荷物を下ろすと、ご無沙汰しております、と政徳に頭を下げた。
「久しぶりだな、真木君」
 咲子は大きく手を振って彼女を迎えた。
「マキちゃん、いらっしゃい! マキちゃんの好きな紅茶をいただいたの。ひとつ持っていって?」
「ええ、いただきます」
「あ、忘れてた。みんなには、お菓子あるよ〜」
「欲しー!」
「もらうー」
 咲子の采配で子供たちが気を取られている隙に、政徳は真木に耳打ちする。
「いつもすまないな。子供たちの様子はどう?」
「とくに大きな問題はありません。櫻くんと亨くんがしっかりしているので、私も楽をさせてもらってます。最近は2人のケンカも減りましたし。定期報告の内容は大袈裟なくらいだと思っていただいてよいと思います」
「…ケンカが減ったって、どうして?」
 なにか環境の変化が? と政徳が訊くと、真木はクスリと笑った。
「史緒ちゃんが一緒に遊ぶようになったからでしょうね。どちらも良いお兄ちゃんだから、ケンカどころじゃないって感じで」
「そうか。学校のほうは?」
「優秀ですよ、お友達も多いし。私も鼻が高いです」
「来春は史緒も学校だ、よろしく頼む」
「ええ。喜んで」
 目を向けると、子供たちは母の膝に群がり甘えている。父も母もめったに家に帰らないというのに、こうして笑顔を見せてくれることは本当に嬉しい。
 政徳は自他共に認める堅物の仕事人間であり、結婚するときに周囲から散々心配されたものだ。仕事の手を緩めるつもりはない、模範的な父親になれないことはわかっていた。それでもこうして、なかなか理想的な家族に囲まれているのは僥倖の至りではないだろうか。真木には本当に感謝していた。
 ピピッ
 室内の団欒を刺すように政徳の時計が短く鳴った。
「───」
 子供たちが振り返る。政徳は確認もしない。咲子は表情を曇らせない。ただ声は少し落ちた。
「梶くん、来てるの?」
「車で待ってる」
 咲子はしょうがないといった調子で苦く笑う。
「たまには顔見せてって伝えておいてね。───さぁ、みんな、もう時間みたい」
「えー」
「はい、準備する〜。婦長さんにまた叱られちゃうよ?」
「今日、叱られたのは咲子さんだけだよ」
「あぅ」
 史緒はまだ渋っていたが、櫻と亨は慣れた様子でバタバタと帰るしたくを始めた。
 もう面会時間が終わる。
 政徳も仕事に戻らなければならない。
「史緒、行くよ」
「また来るね、咲子さん」
 そうして咲子は笑顔で家族を送り出す。
「はい、行ってらっしゃい」
 ドアのところで全員が振り返る。いつもの言葉を口にした。
「行ってきます」

* * *

2/16
/GM/41-50/47