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■01
関谷篤志は重い足取りで暑い日差しの下を歩いていた。
熱は空気まで歪める。音がぼやけ、周囲の喧噪はどこか遠く、はっきりしない、現実感を薄れさせている。道路に立ちこめる陽炎に消える気配はなく、この熱を冷ますための夜が本当に訪れるのか疑わしくさえあった。
櫻を追えなかった。
やっと出てきてくれたのに。
咲子のいたずらを、櫻はもう知った。裏付けを取って、周囲に公開する気かもしれない。櫻は彼の父や妹に接触するかもしれない。
(史緒…)
櫻の口から明かされるくらいなら、その前に、自分で言ってしまえばいいのに。
そうするべきだということも解っているのに。
(───でもなんて言えばいいんだ)
関谷篤志などこの世にいないと!?
名前だけを借りた、偽りの存在だと!?
咲子の葬儀のあとはとことして出会い、何年も一緒に仕事をしてきた「関谷篤志」なんていないと否定しなければならないのか。
どちらとして生きるのか。篤志か、亨か。
どちらが史緒のため?
周囲はどちらを選ぶ? 史緒はどちらを選ぶ? その前に、この事実を受け入れてもらえるのか?
どちらでも。
どちらでもよいと思ってた。
どちらでも、櫻と史緒のそばにいられるなら。
「もしもし? 篤志さん!?」
電話に出ると慌てている声が飛び込んできた。
「蘭か。どうした?」
「櫻さんと…会いました?」
「あぁ、会えたよ」
「なにか、…言ってました?」
「俺の正体を知って驚いてた」
「えっ! ご、ごめんなさい。あたしが、口を滑らせたから」
今にも泣き出しそうな蘭を宥めるために、篤志は笑って返した。
「違うよ。俺がヘマしたんだ」
「でも」
「本当に、蘭のせいじゃない」
強い声で言うと蘭は黙った。納得していない様子だが、蘭はそれ以上は食い下がらなかった。
ややあって、抑えた声が聞こえてきた。
「今、大変なことになってる篤志さんに泣き言を言うのは心苦しいんですけど…あたし、次に櫻さんに会うの…怖いです。だって、問いつめられたらどう答えればいいか、ほんとに分からなくて…」
櫻が欲しい答えを蘭は持っている。でも、それを蘭の口から言うわけにはいかない。事情を知る第三者。蘭の心痛が伝わって、篤志は申し訳ない気持ちで目を閉じる。
「すまない。ちゃんと数日のうちに決着させるから」
「ちが、違うの、謝らないでください。あの、あたしは大丈夫です。あのね、昨日から祥子さんのところに泊めていただいてるんです。あたしの部屋には戻ってないし、どこへ行くにしてもあの駅は通りませんから。…祥子さんはずっと居てもいいって言ってくれて。夜、お話しもできるし、楽しいの。…だから、あたしは平気。篤志さんが一段落させるまで、櫻さんには見つからないと思います」
一生懸命に言葉を並べる蘭の声に耳を傾けているあいだに、自然と笑いが込み上げてきた。
「蘭。ありがとう」
「…え? えぇ? あの、どういたしましてって言いたいですけど、でも、あたし、…何かしましたっけ?」
「俺の正体を見抜いてくれて」
「そんなの…」
「本当に感謝してる。独りで抱えていたら、きっともっと辛かった」
蘭に見抜かれなかったら。
和成に気付かれなかったら。
孤立無援。周囲を欺き続けている苦しさを、なんの救いも助けもないまま、独り、抱えていなければならなかった。
「……」
電話の向こうの声が途切れた。しばらく待っていると嗚咽が聞こえ始める。
「蘭?」
「すみません。…嬉しいです」
「泣くなよ」
「嬉しいんです。ほんとに」
もし独りだったら今日まで耐えていなかっただろう。
彼女との約束を、最後まで果たせないままで。
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