キ/GM/41-50/48
≪4/25≫
* * *
──もう少しだけ待ってくれないか。史緒にも、言わなければならないことがある
──俺自身、決着を付けなければならないことがあるんだ
篤志はそう言っていた。
(もう少しだけって、いつまで待てばいいのよ)
史緒は胸のなかにある不満を否定することができなかった。
本当は余計なことを考えないほうがいいことは解っている。篤志が待てと言っているのだから、今は大人しく待てばいい。
何度も他のことに意識を向けるけど、いつのまにか思考は戻ってしまう。史緒は頭が痛かった。
篤志はひとつだけ、はっきりと口にした。
アダチに入ること。それは篤志自身の意志だということ。
それに関しては未だ問題が残っていること、篤志だって解っているはずだ。父が篤志を身内へ引き込むのは、史緒との結婚が前提にある。それは拒否し続けているし、篤志の気が変わるとも思えない。それとも篤志は単身、あの父を説得したとでも言うのだろうか?
もしそうだとして、篤志がアダチに入ったら、当然、もう一緒に仕事はできない。史緒のそばから離れていってしまう。
それを引き留めることはしたくない。篤志は篤志の意志に従って欲しい。
でも、どうして突然? 今までなにも言わなかった。
どうして?
(なにを隠してるの?)
「史緒、聞いてる?」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、祥子が訝る表情で覗き込んでいた。
「ごめん、なに?」
仕事中だった。
事務所には史緒と祥子の他に、健太郎と三佳も来ている。外は明るく、室内には冷房が入っている。真っ昼間から意識を飛ばしてしまっていたことに史緒は反省した。
祥子には、篤志がやっていた仕事の大半を回している。事務仕事から外に出ての調査、それぞれのスケジューラまで。仕事面だけを考えても、篤志が抜けるのは結構痛い。けれど、祥子も手一杯の仕事にどうにか食いつこうと努力していて、その姿勢は頼もしい。もちろん、口にはしないが。
「新居さんから呼び出しがあったの。この後、出掛けるから」
「そう、わかったわ」
「それから、篤志は、次、いつ来るの? 教えてもらいたいところがあるんだけど」
と、片手に抱えているファイルを示す。
「なぁに? 私に訊けばいいじゃない」
「できる限りそれは避けたいから」
「…はっきり言うわね」
「今更」
仕方ないから明日も来なかったら史緒に訊くか、と祥子はわざとらしく溜め息を吐く。当初に比べたら本当に図太くなったと思う。
史緒が言い返すより先に祥子は振り返って、
「三佳、司は明日来るんでしょ?」
仕事振り分けのために確認すると、三佳は短く肯定を返した。
「蘭は?」
と、誰にともなく訊いたのは健太郎だ。
「学校だって」
祥子が答えた。
「夏休みだろ?」
「共同研究があるって言ってた」
「よく知ってるな」
「蘭は昨日から私の部屋に泊まってるの。今日のことも言ってたから」
相変わらず仲が良いらしい。
「蘭といえば」
健太郎がぽんと手を叩く。
「ほら例の写真! 蘭の初恋の男って、史緒たちとどういう関係? 今は何してんの?」
「あ、私も知りたい」
2人から質問を投げつけられ、史緒は手を止めて、顔を上げて、息を吸って答えた。
「あの2人は、私の兄なの」
一年前だったら、絶対に答えられなかった。
どの程度、自分が変わったのか。それを試す意味であっさりと答えてみる。
この一年、いや、この半年で、過去と向き合い、自分自身を縛っていたものが解(ほど)けたような気がする。恐れていたとおり、ある一面は弱くなった。でも代わりになるものを得ることもできた。結果的に良かったのだと、史緒は判断している。
祥子と健太郎はそれぞれ目と口を開け驚きを表した。ソファに座って雑誌をめくり、会話に参加していなかった三佳のほうからもなにやら物がぶつかる音。
蘭にみんなの前で写真を出させたのは史緒自身だ。突っ込まれることを予測していなかったとしたら、浅はかと言われても仕方ない。史緒は答える義務があることを承知していた。
その結果、健太郎たちにとって面白くない話になることも解っていたが、隠しておくと余計に気になるだろうし、構わないと思う。
もう、昔のことだから。
「ええぇぇっ!?」
と、悲鳴をあげたのは祥子で、
「史緒、兄弟いたのか? …兄? あ、でもなんかわかる気がする」
と、妙な納得の仕方をしたのは健太郎のほうだった。
「もしかして、すごく甘やかされて育った?」
以前、誰かにも同じようなことを言われた気がする。──絶対、末っ子でしょ? 我が侭だし、偏食あるし、面倒見悪そうだし──とかなんとか。
(私って、そう見えるのかしら)
史緒は真剣に考え込んでしまった。
兄、という呼称を使ったことがないので、兄弟がいたという意識は薄い。あの頃は、年上の友達がいるような感覚だった気がする。でも年の離れた年長の2人には、よく面倒をかけさせていたような。本当に、幼いときのこと。
「確かに…、小さい頃はそう、だったかな」
「あっはは、で? 今は何してんの?」
「2人とも、今はもういないの。写真の左の男の子はずっと昔に…事故でね。右の男の子も、やっぱり事故で、今は失踪中ということになってるの」
と言うと、やはりこうなるとは予測していたものの、場の空気が白けしんとしてしまった。史緒はできるだけなんでもない表情で、軽く肩をすくめてみせた。
「あー…、言いにくいこと言わせてごめん」
健太郎の率直さは本当に長所だと思う。祥子と三佳は気まずそうに、申し訳ない、という表情をした。
「いいのよ、気にしないで。久しぶりに昔の写真が見られて、私も嬉しかったし。蘭には感謝しなきゃ」
あの写真を撮った日のことは漠然と憶えている。
季節は、…そう、まだ寒い春だった。
亨がいた、最後の春だった。
≪4/25≫
キ/GM/41-50/48