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 雨の日の夜に、チャイムが鳴った。
「あの、…和代ちゃん? …あたし、咲子です」
 和代は驚いて、急いでドアを開けた。
「咲子っ?」
 実際、そこに立つ人物を見ても、和代は自分の目を疑わずにはいられなかった。
 阿達咲子は、足首が隠れるくらい長いワンピースに肩からショールを巻き込んでいるだけの薄着で、足下は外出用のヒールサンダル、長い髪はかすかに湿っていた。外は雨だった。和代は悲鳴のような声をあげる。
「一体どうしたの!?」
 咲子がこの家に来るのは初めてだった。というより、咲子はほとんど病院から外へ出ることがない。過去に何度か病院の周辺を一緒に散歩したことはある、けれどこんな風に軽装でしかも一人でなど考えられないことだった。
 それに、咲子はつい先日、男の子を一人、亡くしたばかりだった。弔問に訪れた際、咲子は青い顔でうつむき、誰とも目を合わせようとしなかった。
 今は気軽に出掛けられる心情でも状況でも無いだろうに。
「どうやってここまできたの?」
「タクシーで」
 それを聞いて、和代は少なからず安心した。電車で人混みに揉まれたり雨に濡れたりはしてないということだ。想像しただけで恐ろしい。
「突然に、ごめんなさい」
「まさか抜け出して来たんじゃないでしょうね。あぁ、それより早く、とにかく中へ…お茶を淹れるから。それに病院へ連絡したほうが…」
「和代ちゃん!」
 招き入れようとした手を拒んで咲子は強い声を出す。強い意志を持った目を和代に向けていた。
「お話が、あるの」
 いつものやわらかい笑顔とは違う。思い詰めた表情に和代は一瞬言葉を失う。
「…わかったわ。ちゃんと聞くから。お願い、中へ入って」
 そこでようやく張りつめていた気配が消え、咲子は和代が差し出した手に応じた。
 咲子の指先は酷く冷たかった。

「咲ちゃん!?」
 自室へ戻っていた高雄が驚いた様子で顔を出した。
「こんばんは、高雄くん。夜分に、ごめんなさい」
「あなた、お願い、タオルと、なにか羽織れるものを」
「わかった。お茶も淹れるから、君は咲ちゃんについてて」
 視線と、言葉を交わす。咲子は知り得ないことだが、ここのところぎこちない関係が続いていた高雄と和代にとって、それは久しぶりのことだった。
 はじめての場所で慣れない様子の咲子をリビングに座らせ、和代もその隣りに腰を下ろした。咲子はタオルで髪を拭く。その手は、小さく震えていた。
「寒いの? 着替えたほうがいいかしら」
「…ううんっ、違うの、大丈夫。……だいじょうぶ。寒いんじゃないの」
 咲子は視線を逸らしたまま首を振る。なにか言いかけて、やめた。
 高雄がお茶を淹れてきて、咲子と和代の前に置いた。
「俺は外そうか?」
「高雄くんも聞いて!」
 いつになく余裕のない咲子に和代と高雄は視線を合わせた。けれど2人とも、咲子の心情を計ることはできない。


「お願いが、あるの」
 関谷家のリビングで旧知の3人はテーブルを囲んだ。咲子の隣りに和代、そして向かいに高雄が座る。
 咲子の声はまだ硬い。室内は充分に暖かいはずなのに、咲子の体は震えが収まらないようだった。
「うん。言ってみて?」
 安心させるように和代は咲子の肩を撫でる。咲子は顔を歪め、頭を抱えた。
「あたしはばかだから、他に思いつかなくて。きっと他に、もっといい方法があるんだろうけど、でも、わからなかった。あたしは、酷いことをしたし、酷いことをしようとしている、和代ちゃんたちまで、それに巻き込もうとしてるの」
「咲子…?」
「亨くんが死んだのは、うそ」
「…え?」
「おしばい。あたしがし向けたの」
「ちょっと、咲子?」
 どこか壊れたように声を震わせる咲子の肩を掴む。目を合わせさせると、咲子の目からどっと涙が溢れた。
「…酷い、怪我をして」
 息をとぎれとぎれに、子供のように泣き始めた。
「昨日、やっと意識が戻って。……よかった、目を開けてくれてよかった。生きていてくれて、本当によかった。よかった。よかったよぉおぉ」
「咲子? どうしてそんなこと」
「亨くんに怪我させたのは櫻くん。だけど、櫻くんに取り返しがつかないことをしたのはあたしなの。だから、亨くんの怪我もあたしのせいなの!」
 咲子は和代の腕にすがり、泣いて、でも言葉を止めない。
「櫻くんを変えてしまったのはあたし。そして櫻くんは、自分と違う亨くんを見るのが辛いの。だからあたしは…っ、ひどい…、あたしはひどい、あたしは! 櫻くんのために、亨くんを殺したんだわ」
 その後、意味のない言葉をあげて咲子は泣いた。
 高雄と和代はかける声もない。咲子の告白に驚いて、整理することもできなかった。

「…っ、お願いが、あるの。───亨くんのこと」
 2人ははっとする。ようやく話が見えた。
 咲子は和代から体を離し、床に正座して手をつく。
「咲子っ」
「亨くんのこと、お願いできませんか」
 頭を下げる。和代と高雄は慌てて腰を浮かせる。
「ちょっと…」
「お願い、お願いします」
「咲子、顔を上げて。ちょっと待って! 話が早すぎて、……ねぇ、落ち着きましょう? …それに、亨くんの気持ちはどうなるの?」
「あの子はもう12歳。自分のことは自分で決められる。そうしようって言ってくれた」
「だからって…」
「お願い、おねがい! おねがいします!」
 咲子の必死な声に、高雄と和代は声もだせなかった。

 関谷夫妻が長い話し合いの末にそれを受け入れたのは、それから一週間後のことだった。


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