キ/GM/41-50/49[2]
≪1/17≫
−2−
■Stratosphere
あのときも。
───あのときも。
ひどく、疲れていたんだと思う。
自覚さえできない、そっと肩を抱く重いものに倒れ、
ひとりでいるとき、ふいに、涙がこぼれるような、空虚な疲労。
だからあのとき、あんなに。
* * *
七瀬司が事務所に戻ったのは予定していたよりずっと遅い時間になってからだった。
朝の天気予報で夕方から雨が降ると聞き、杖の他に合羽も携帯していたのだがどうやら杞憂だったらしい。肌に感じる風の湿度はこの季節にしては低い。雨の匂いもしない。心地よい空気だ。春は過ぎ、梅雨も夏もまだ先にある6月の大気。
司はいつも通りの足取りで階段を上り、廊下を歩き、2回のノックの後に返事を待たずに事務所のドアを開けた。
「ただいま」
事務的に口にして、杖と(ついでに合羽を)定位置に置いた後、椅子に座る現在この部屋唯一の人間へ、司は近づいた。
「おかえりなさい」
史緒の声が返る。
「ごめんなさい、急におつかいなんて頼んじゃって」
「いいよ。どうせ帰り道だったし」
小脇に抱えていた封筒を差し出すと、ありがとうと言って史緒はそれを受け取る。封筒の中身を検める音がして少しの間待つ。
その後、司は仕事の報告を手短かに済ませ、最後にここにいない人物について訊ねた。
「篤志は?」
「そろそろ帰ってくるかしら。一度、集まりたいんだけど、時間ある?」
「うん」
仕事は終わり報告は済ませた。時間は定時を回っている。司は踵を返し、部屋の隅のロッカーを開け、ヴァイオリンケースを取り出す。そのままドアに向かおうとしたところで史緒に呼ばれた。
「司?」
「屋上にいる。篤志が帰ってきたら呼んで」
足を止めるつもりはなかった。ドアのノブに手を掛け、回す。
「待って! あの子のことだけど」
「裏事情には興味無いよ。別に聞きたくない」
「……」
そこで史緒は黙ったので司はドアを開け、事務所を後にした。
屋上へ続く扉を開けると気持ちのよい風に包まれた。少しのうねりを持って空へ吸い上げられていく、寒くも暑くもない、人工的では無い自然の空気の流れ。時間的に日没時。司は西を向く。たぶん、まだ、太陽は出ているはずだ。
ケースを足元に置き、中からヴァイオリンと弓と松ヤニを取り出す。ヴァイオリンを顎で持ち、弓を締め、松ヤニで丁寧に整える。慣れた作業を手早く進めていく。
阿達家を出てからはアパート暮らし。自分の部屋で楽器など鳴らせるはずもない。だから楽器は事務所に置いて、たまに屋上(ここ)で弾いていた。
ことん。松ヤニを足元のケースの中に落とす。ちゃんと収まったことを音で確認した。指で弦を弾くと、音はすぐに飛んで行ってしまう。屋上(ここ)では反射する壁も無く、響かない。それを別段気にすることもなく、司は各弦の調律を始めた。
ヴァイオリンを教えてくれたのは蓮家の兄の一人だった。
まだ香港に着いて間もない頃。
「思い通りになることがあると自信が持てるだろ」と。
楽器をやらせる理由としてはどうかと思ったけど、あの頃は「学べ」と与えられ「吸収しろ」と要求されているものが多すぎて形振り構っていられなかった。
そして結局は、思い通りと言ったって楽譜の音を出せるというレベル。それも簡単な曲だけ。自己満足には十分だが、他人に聴かせる代物では到底ない。元々、蓮家の兄には、司に音楽的素養を身につけさせようという意図は無かったようだ。これも耳の訓練のひとつだったと気付いたのは結構後になってからだった。
ある日、蓮家の兄は司にヴァイオリンを教えるのを止めた。司としてはちょうど面白くなってきていた頃だったので不満があったが、「そのへんでやめておけ」という。
その理由はもっとずっと後になってから気付いた。
もう少しこの楽器に踏み込んでいたら、今頃、自分の技術の無さを嘆いていただろう。そして高みを目指し努力するかそれとも諦めるかの選択という悩みを抱えていたはずだ。そういう領域に辿り着く前だった。
音楽にハマり込むつもりは毛頭無いし、今の状態───丁度良い手慰み、手軽に遊べる玩具───は気に入っている。兄には感謝していた。
「よっ、と」
ヴァイオリンを持ったまま手摺りに腰掛ける。
とくに弾きたい曲があったわけではないので、基礎を鳴らしてみる。司の指の中で生まれた音は、やはり、すぐに空へ抜けてしまうけど、それで満足だった。
一人で弾くのは楽だ。丁寧に弾いても粗雑に弾いても聴くのは自分だけ。生まれた音もすぐに消え、そして残らないから。
座る手摺りには十分な幅があり、気をつけていればバランスを崩すこともない。けれど先月だったか史緒に見つかって、危ないと叱られた。
(いつから他人に世話焼く性格になったんだか)
そのときの様子を思い出して息を吐く。
この半年で、史緒はずいぶん変わった。ずっと籠もっていた反動か、仕事への責任感がそうさせるのか。他人と関わろうとする努力が見られる。それは、過去数年間を同じ家で暮らしていながらほとんど話をしなかった司からすれば奇異な変化だった。
でもその変化は史緒にとって良いことだろうし、篤志はその史緒をうまく支えるだろう。
司自身はいつまでここで史緒や篤志とともに行動していくかは判らない。切りの良い時期に抜けたいと思っていた。他にやれることを捜して、適当に言い訳して。
彼らとうまくやれる自信が無いわけじゃない。付き合いが長いぶん嫌(きらい)もあるが、腹を探り合った結果の信用はある。
ただ、この先もあの2人とやっていくことを想像できないだけだ。
20歳までに道を選べという阿達政徳との約束もある。
ここにいる時間はそんなに長くはないだろう。
───そう、思っていた。
人の気配を感じて司は指を止(と)めた。同時に音も止(や)む。
考え事をしていたせいだろう、ドアが開いたことに気付かなかったのは迂闊だった。
「史緒?」
返事が無い。すぐそこに、確かにいるのに。
「篤志? ───誰?」
ここに来るのはその2人しかありえない。史緒や篤志ならすぐに声を返すはず、と警戒心を出してしまった後に、遅れて気付いた。
「…もしかして史緒が言ってた女の子?」
低い位置から微かに息を飲む音がする。肯定の沈黙。
数日前から、史緒は女の子を預かっている。その子は体を悪くしているらしく、毎日、医者が通ってきていた。司は会ったことがない。
その子を預かることになった事件について史緒は警察に呼び出されることもあったし、さらにその件の後始末で篤志も走り回っているらしい。
でも司だけは他人事だった。その仕事については司は留守番だったし、直接の経緯は聞いていない。聞く気もない。どうせすぐに別れる他人、しかも子供。話を聞いて同情してしまうのは嫌だった。
その女の子が目の前にいる。
歩けるようになったとは聞いてなかった。いつまでここにいるつもりかは知らない。けれど少しでも出歩けるようになったのなら、今後の判別のために声と足音を聴いておく必要があった。
手摺りから降り、向き直る。微かな呼吸は聞こえるが相手は一度も声を出してない。人見知りなのだろうか。
一般的に子供の挙動は予測が難しい。突然大声を出したり突進してきたりするかもしれない。一応、構えながらも安心させるように笑いかけ、手を差し伸べる。すると、目の前の子供はゆっくりと歩み寄った。ずいぶん危うげな足音が近づく。
(そういえば病み上がりか)
時間を掛けてもちゃんと辿り着き、小さな手が司の手に収まる。ほんとうに小さな手だ。
それから、おそらく衣服に染み付いているのだろう消毒液の匂い。昔、自分が入院していた頃を思い出して心が翳る(顔には出してない)。この子に対する憐れみもあったかもしれない。
名前を訊ねると、喉が貼りついたような声で答えた後、───子供は、火がついたように泣き出した。
ぐずるような泣き方ではない。天に届く大声。まるでそうしないと呼吸ができないように。今まで塞き止めていたものを開放するように。
「え…、どうしたのっ」
司は慌てた。でも。
耳を塞ぐほどの大声、言語的な意味を成さない音を必死に吐き出して、泣いて、全身を使って。
小さな体の、その体いっぱいの主張。
揺さぶられた。激しく真っ直ぐな意志表示に。
蘭と初めて会ったときの気持ちをたまに思い出す。
今日まで良い語彙を見つけられなかったけど、単純に、感動、と表すので合っていると思う。
とりたてて特異なシチュエーションではなかった。香港へ渡る日。日本(こちら)の空港で、和成が紹介してくれた。
息を吸う音が聞こえて、小さく風が吹いたのかと思った。
「はじめましてっ。蓮蘭々です」
たったそれだけのこと。
だけど今も鮮明に思い出せる、あの瞬間の、逸るような気持ち。
それを今、思い出した。
体の中からすべてを吐き出すような大声は嗚咽に変わっていた。
司も、もう、宥めようという気はなかった。この子が泣いているのは身体的な痛みや恐れでないことは明らか。内面に溜めていたものを吐き出す作業に思えて、そっと頭を撫でるに留める。
泣く子を問いただすのは大人げない気もしたが、少し落ち着いた後に司は訊いた。
「ねぇ。どうして泣くの?」
女の子は泣きじゃくる合間に律儀に答えてくれた。
きれいだから
「…きれい、って、なにが?」
「…、……、……」
「───」
胸を打たれ言葉を失った。知らず呼吸も止めていた。
伝染したかのように、司も泣きたくなった。
理由は、全く違ったけれど。
≪1/17≫
キ/GM/41-50/49[2]